半世紀を超えて蘇る

昨年7月から1年近くつづけていた単行本の執筆。

ようやく初校の校閲ゲラの著者校正が終わり、登山で言えば9合目といったところまで到達した。

ちなみに「初校」というのは、原稿の見本印刷のファーストバージョン。

それを校閲さんというすごいスキルを持った人が文字や表現、データの間違いなどがないかをチェックする。

校閲さんのチェックが終わると著者、つまり私のところに送られてきて、今度は著者校正。

つまり原稿を書いた本人が、修正点を反映させたり、あらたに加筆したり、使用データの再確認をしたりする。

この著者校正は、原稿を書くのと同じかそれ以上に根気を要し、何度やっても慣れることがない。

刊行した著作の数だけ、私の場合なら優に30回ほどの著者校正を経験しているのだが、毎度疲労困憊になってしまう。

原稿を書くというのは、心身ともに多くのエネルギーを使う。

そのため、ほとんど枯渇している状態で、さらに力を振り絞らなくてはならないからだ。

今度の本は私にとっては初、個人的な体験談を書いている。

取材をせずに、どんな個人話を書いたかと言えば、父の在宅看取りをした経験だ。

刊行前なので、書名や具体的な内容を明かすことはできないが、「家で死ぬ」と言い張って実際に住み慣れた自宅で死んだ父、そしてその死までの一部始終を見た私。

父と娘という関係性とともに、この国の医療や介護、終末期の現実をありのままに綴っている。

ここ数年刊行してきた新書と違い、単行本はそれぞれ「カバー」が作られる。

今度の本もデザイナーやイラストレーターが関わり、どんな装丁にするかアイディアを出し合った。

その中で、父と私の親子関係をイメージするためにいくつか写真を用意することに。

とはいえ、父の介護や看取りをしていたのはちょうどコロナ禍で、どの写真もみんなマスク姿だ。

よりリアルな関係性をイメージしてもらうために、昔の写真も引っ張り出すことにして、実家の古いアルバムを探した。

ところがこちらも、父と私が一緒に写っている写真が乏しい。

昔は写真が貴重、おまけにカメラを構えるのはたいてい父だったから、どうしたって被写体になりにくい。

あれもダメ、これも違う、そんなふうに何冊ものアルバムをめくりつづけるうち、ようやく父と私のツーショット写真が見つかった。

奇しくも父が亡くなる2ヵ月ほど前、桜の咲き誇る実家近くの遊歩道で撮った「最後の父娘写真」と同じ場所。

およそ半世紀前の白黒写真だ。

白黒写真

私が幼いのは当然として、父も若い。

おまけに、なかなかのイケメンと言える。

最初は父のイケメンぶりに笑ったが、そのうちポロリ、ポロリと涙が滴り落ちた。

おとなになってからの「親」というのは、どこかしら煙たい存在で、いい面よりも悪い面のほうが目についてしまう。

まして年老いた親、頑固な親というのは厄介だ。

イライラさせられたり、話が通じなかったり、対立の末に「もう死んじゃえばいいのに」と思うことさえあったりする。

こんな人が自分の親か…、そう情けなく悲しい思いに心がパンパンのときは、かつて親に愛されていたことなどすっかり忘れている。

それでも紆余曲折を経て、なんとか父を看取ったあとには、多くの気づきと得難い経験、なにより父という人への深い思いが残った。

そうして見つけた半世紀前の写真から、あらためて遠い日々が蘇る。

贅沢とは無縁の、質素でささやかな子ども時代だったが、懸命に働く父と母からたくさんの愛を受けた。

幼馴染や近所の人たちとの深い交流、町内会の旅行や祭、夏の海岸でのスイカ割りや遠泳。

一枚の古い白黒写真から、かつての日々がまざまざと蘇り、私はつい思い出に浸る。

そしてまた、今はもういない父と母への感情が込み上げて、ポロリと涙が落ちるのだ。

この写真をもとに、どんなカバーができるのだろう。

印刷され、装丁された新しい本が書店に並ぶまでもう少し。

そのときは真っ先にお供えするからね、私は父と母の遺影にそう語りかけている。