ピンクシャツデー

神奈川県内で活動する認定NPO・神奈川子ども未来ファンドさんからのご依頼で、オンライン配信による講演と対談を行った。

配信会場は横浜駅近く、当日、到着するとスタッフからピンクのTシャツを渡された。

「ピンクシャツデー」を広めるためのイベントだからだ。

ピンクシャツデー?

聞き慣れない言葉だが、端的に言うといじめ防止活動の一環で、ある実話が由来となっている。

正確性を期すために、「PINK SHIRT DAY 2023 in kanagawa」のサイトから引用させていただこう。

ピンクシャツデーは、カナダの高校生がはじめた「いじめ反対」運動です。
2007年、カナダ・ノバスコシア州。
中学3年の男子が、ピンク色のポロシャツを着て登校したことを発端に、性的なからかいや暴行などのいじめにあいました。それを知った高校3年生の男子2人が、「いじめはもうたくさんだ」と、ピンク色のシャツを買い集め、学校のネット掲示板やメールを通じて、「明日、みんなでピンクのシャツを着よう!」と呼びかけました。
翌朝、みんなに配ろうと大量のシャツをもって学校に行くと、そこには、みずからピンク色のシャツや小物を身に着けて登校する生徒たちの姿が・・・。
彼らの呼びかけを知った人たちが情報を拡散し、多くの生徒たちが賛同。学校中がピンク色になったのです。これによって、いじめを受けた生徒は安心して学校に通えるようになり、その学校でのいじめは自然になくなったといいます。

子どもたちがはじめた「いじめをやめよう」、「いじめをなくそう」という行動はピンクシャツデー運動となり、毎年2月を活動月間として、現在は180の国と地域に広がっている。

私はその日、特に深刻化しているSNSいじめやネット上での誹謗中傷について報告した。

「しね」というメッセージを連投(連続で投稿すること)された中学生の少女のスマホ画像。

同級生の手足を縛り、「いじめ風なんちゃって動画」を作成、投稿した高校生。

いくつか具体的な取材例を挙げたが、実のところ私が言いたいのは「こんなにひどいいじめが起きています」=「いじめはやめましょう」ということではない。

子どもたちの現場を取材し、数多くの生々しい声を集めて四半世紀。

残念ながらいじめはなくならないし、より陰湿で執拗な行為も後を絶たない。

おまけにいじめの加害者、あるいはそれに加担する子どもたちの意識は軽く、みずからの行為が相手を傷つけるといった感覚を持たないことも少なくない。

昨年、中国で翻訳出版された『スマホ廃人』(文春新書)の中で紹介したエピソードがある。

社会学者の土井孝義・筑波大教授の著書(つながりを煽られる子どもたち・岩波ブックレット)から引用させていただいたのだが、一部を再構成の上、ここであらためて紹介しよう。

仲良しグループが学校の放課後にファミリーレストランに行き、軽食とともにフリードリンクを頼もうという話になった。そのとき、家計が苦しく小遣いの少ない子どもだけが「水」で済ませたところ、翌日から一切の誘いを受けなくなった。
おとなからすると「仲間はずれ」や「いじめ」と感じるだろうが、彼らの感覚は違う。
みんなでフリードリンクを頼んでいるときに、ひとりだけ水を飲んでいる友達の姿を、周囲の客からジロジロ見られて恥ずかしかった。それが彼らの言い分だ。

友達を「仲間はずれ」にした側は、あいつのせいで恥をかいたと、自分たちのほうが被害者のように捉えている。

「和」を乱し、ひとりだけ違う行動をしてみんなに迷惑をかけるような人間は排除するのが当然だと自己正当化もしている。

このエピソードはリアルの場の出来事だが、SNSでは「不謹慎狩り」のような行為も横行している。

代表的なのがコロナ禍におけるマスク警察や自粛警察。

「マスクをしない不謹慎なやつは許せない」、「感染拡大に加担する人間を罰することが社会平和につながる」と同調圧力を強め、それは「世のため、人のため」だという正義感で誹謗中傷をしていく行為だ。

前述したピンクシャツデーの運動は広がり、その活動自体は意義あることに違いない。

けれども一方で、現代社会における過剰な同調圧力や正義感の押し付けといった風潮はますます高まり、またその背景への理解が進んでいないことは問題だと思う。

「いじめをやめよう」とアピールすると同時に、なぜいじめがなくならないのか、いじめをする側はどういう意識や感覚を持っているのか、加害者側からの視点で考えることも大切だろう。

もうひとつ、いじめに遭った被害者が誰に相談し、その結果、どのような解決方法が提示されるのか、具体的な情報提供の乏しさも痛感する。

いじめ被害と闘う、つらい現実から逃げる、死なずに生き抜くためにどうすればいいのか、子どもたちのほとんどは具体的な術を知らない。

なぜなら、そうした情報を教えるおとながいないからだ。

「子どもがいじめられたらと思うと不安」、「最近のSNSいじめの増加に頭を悩ませている」、保護者や学校関係者は一様にそう言うが、悩んでいるだけでは何もはじまらない。

私の講演で質疑応答の際、とりわけ多い質問はこうだ。

「子どもがLINEでいじめられないか、心配しています。もしいじめられたら、どうすればいいですか?」

私はこんなふうに回答する。

「それは私に聞くのではなく、ご自身で調べてください」

現場に詳しく、専門的な知識を持っている人に教えてもらいたいという気持ちはよくわかる。

だが、そんなふうに「丸投げ」する姿勢こそが問題で、まずはおとな自身が「自分の、身近にある問題」として積極的に情報収集し、具体的な対応策について子どもと話し合ってほしい。

いじめは、ときに命にかかわる。

現実に、いじめを苦に亡くなってしまう子どももいる。

今はかろうじて生きていても、「死にたい」、消えたい」と思う子どもはたくさんいる。

例えが悪いことを承知で言えば、もしも子どもが「命にかかわる病気」だとわかったとき、親はどうするだろうか。

必死になって病院や治療法を探し、ネットでさまざまな情報を収集し、みずからの生活を犠牲にしてでも子どもを支え、その命を守ろうとするだろう。

そう考えたら、いじめも全力で立ち向かわなくてはならない。

おとなが真剣に、具体的に行動しようとする意識を持つこと。

それこそが、いじめ問題への対応の第一歩だと思っている。