スランプを経て中国へ

今年に入ってから、すっかりスランプに陥って仕事が進まなかった。
原稿を数行書くのに数時間、やっとできたと思って読み返してみるとなんだか変だ。
その数行を削除するだけじゃなく、何十行も前に戻って書き直しても、やっぱりどこか納得できずに悶々とする。
そしてまた時間だけが過ぎ、一向に形になっていかない。
これはもうあきらかなスランプだ。
石川さんにスランプなんてあるの? とビックリされるかもしれないが、素の私はネクラで小心者。
何かにつけクヨクヨ考えることが多い。
今回のスランプは根が深いのか、次第に夜も眠れなくなってしまった。
焦れば焦るほどもっと仕事が立ち行かなくなり、頭がこんがらがっていく。
こういうときは何か気分転換が必要だ、さぁどうしようと考えて、旅行を思い立った。
日頃、地方での講演など移動が多いので近場でゆっくり過ごすことも考えたが、どうせならまだ行ったことのない場所へ行ってみようと決めたのが中国だ。
もともと私は中国の現代史をテーマにしたノンフィクションが大好き。
中国残留孤児の苛烈な運命を描いた山崎豊子先生の『大地の子』。
祖母・母・娘の三世代の激動の人生と文化大革命の実態を生々しく伝えるユン・チアンさんの『ワイルド・スワン』。
先の終戦後、旧満州、現在の中国東北部に取り残され、その後の国共内戦(中国国民党軍と共産党軍の戦い)に巻き込まれた一家の凄惨な道程を伝える遠藤誉さんの『チャーズ』。
いずれも何度となく読み返した愛読書だ。
それぞれの本は複雑な歴史と社会構造、そこに生きる人々の想像を絶するような生き様を見事に伝え、中国という国の有り様に否応なく興味をそそられる。
急速に近代化した中国の街をこの目で見たいという思いもあった。
来日する中国の人たちが「爆買い」するのは有名な話だが、いったいどこまで豊かになっているのか、実際のところ格差はどうなのか、「百聞は一見にしかず」で、やっぱり自分で体感したい。
私事では、拙著『スマホ廃人』が2年前に北京の出版社から翻訳出版され、今年は『家で死ぬということ~ひとり暮らしの親を看取るまで』の中国語版が上海の出版社から刊行される。
もうひとつ、次作で上海市内のある事象を取り上げる予定で、その現地取材をしたいという思いもあった。
なにやらてんこ盛りの動機だが、日程確保の都合もあり、今回は上海を起点に蘇州、無錫をまわってきた。
さてその感想は、「広くてうるさいけどおもしろい」だ。
あたりまえだけれど、かの地は広い。空港からホテルまで軽く2時間の車移動だし、「次の観光地へ」なんていうガイドさんに従ったらまた2時間。
片側6車線の広い高速道路は、ベンツにBMW、アウディといったドイツ車や日本の高級SUV、国産の高級セダンだらけでビックリしたが、見渡す限りの高層マンションの乱立にも息をのんだ。
なによりどこに行っても人だらけ。
日本の10倍以上の人口というのは、やっぱりすごいパワーだと痛感した。
さらにその人々が、まぁよくしゃべること(笑)。
スマホもみんなスピーカーフォンにして、相手の声を筒抜けにしながら大声でしゃべっている。
もっとも日頃「声が大きい」と注意される私にしたらかえって気が楽で、なんだか妙に馴染めていた。
観光客だから、という点はあるにせよ、ガイドさんをはじめ、ホテルやレストラン、お店のスタッフさんもみんな親切。
ただし、単純に親切にしてくれるわけでもない、そんな経験もした。
旅行中、同行した長男が体調を崩してしまった。
立ち寄ったレストランの店長が日本語を話せるというので薬局の場所を尋ねたところ、「一緒に行く」と言ってくれるではないか。
具体の悪い長男を店に残して私と店長で薬局に行き、あれこれと品定めをして無事に薬を購入することができた。
レストランに戻って一安心と思ったら、店長が「お土産にどうだ?」と紹興酒の瓶を持ってきた。
そう、親切の代わりに商品を買えという話。さすがにかの地の人は商魂たくましい。
我が家にはお酒を飲む人がいないので、紹興酒を勧められても困る。
といって親切にしてもらいながら、無下に断るのも気が引ける。
なにより「メンツ」のお国柄だから、「いらない」とストレートに言うのは相手のプライドを傷つけるかもしれない。
「お兄さん(店長)があんまりいい男だから、もうそれだけでドキドキしちゃって酔っぱらったみたいになっちゃったわ。だから紹興酒を買わなくても大丈夫そう」
大阪のおばちゃんみたいに言ってみると、店長は大笑い。
「うまいねぇ。あなたすごいよ」
売りつけようとした紹興酒を引っ込めて、握手を求めてくるではないか。
お互いに笑って握手し、紹興酒の代わりにお菓子を一袋購入してお店をあとにしたが、こういうコミュニケーションがとても楽しかった。
自由や人権、民主主義、さまざまな問題を抱える中国ではあるけれど、そこに生きる人々はたくましい。
日本にもずうずうしいくらいのパワーがあったらな、とつい母国の「生きづらさ」を思ったりした。
ところで旅先で体調を崩した長男は、帰国直後の検査でコロナ感染だとわかった。
旅行中、具合の悪い長男の様子に神経をすり減らし、帰国後は隔離生活をあれこれフォローして休む暇もなかった。
そうしてかれこれ半月が過ぎ、気づいたらあのスランプが軽くなった気がする。
夜はぐっすり眠れるようになり、少しずつだが仕事も進みはじめた。
残念なのは、長男の体調不良でスケジュールが狂い、上海での取材ができなかったこと。
でもまたあらためて行ってみよう、今はそんな前向きな気持ちになれている。
中国の広さと熱気が思いのほかいい刺激になったのか。
それとも「旅」という非日常が心の切り替えに役立ったのか。
次作の刊行に向けて一文字一文字、持てる力を使って綴っていこうと思う。