伊東で100年生きてきた

「ご出身はどちらですか?」と聞かれて「静岡県の伊東市です」と答えると、「うわぁ、いいところですねぇ」、たいていそんなふうに返される。
「海もあるし山もあるし、なんといっても温泉が最高ですね」
「温暖で自然豊か。何を食べてもおいしいですよね」
「古き良き温泉街の雰囲気もあるし、おしゃれなリゾートホテルもあるし、いろんな楽しみ方ができますねぇ」
そんな誉め言葉をいただくたび、我がことのようにうれしくて、いつも胸の奥が温かくなる。
そんな伊東が、今や目を覆うばかりの状況にある。
言うまでもなく、市長の学歴詐称に端を発した騒動にほかならない。
その内容は広く知れ渡っているから今さら説明するまでもないが、例の市長を選んだ伊東市民が「田舎者」、「民度が低い」、そんなふうに批判されるのはたまらない。
両親、祖父母、おじやおば、いとこ、私と兄、みんな伊東市民だった。
そして今年は、私の祖父母が伊東に住みはじめてちょうど100年の節目になる。
明治生まれの祖父と祖母はともに現在の伊豆の国市の出身だが、どちらも目に障害があった。
今のように福祉制度など整っていない時代、障害のある人が働いて自立するのは並大抵のことではない。
幸い祖母は大きな農家の娘だったため、親のはからいで静岡市の盲学校に進学し、寮生活をしながら鍼灸マッサージ師の国家資格を取った。
女学校へ進学できる人は一握りという時代、親元を離れて専門的な勉強ができたのは恵まれていたと言えるだろう。
その後に祖父と結婚し、湯治客、すなわちマッサージの需要が多かった伊東に居を構え、「土屋マッサージ療院」を開業した。
掲載した写真は昭和3年(1928年)ころと思われる。
「土屋マッサージ療院」の看板には、「文部省認可盲学校出身」という文言とともに、電話番号が記載されている。
昭和初期、電話を持てるのはごく一部の裕福な家や事業所、旅館などだったことを考えると、この療院を開業した祖父母の「賭け」のような覚悟が伝わってくる。
ちなみに写真の左端のメガネの男性が祖父、真ん中で乳児をひざに乗せているのが祖母だ。
写っている幼子は長女と次女でいずれも父の姉、昭和7年生まれの父はまだいない。
右端の少女はお手伝いさん。祖母は目が不自由だったし、施術で家を空けることも多かったから、お手伝いさんを雇わないと生活が成り立たなかった。
ひとりだけ背広に蝶ネクタイという、おしゃれな若い男性が写っている。
彼が何者なのかはっきりしないが、顔立ちから察するに祖父の弟ではないかと思われる。
のちに私の父、さらに父の弟が生まれ、4人の子どもを抱えながら祖父母は懸命に働いた。
盲学校を卒業し、国家資格も取得した祖母はいわゆる「学」があったため、温泉宿に長期逗留する高名な作家や学者から「指名」をもらい、宿に出向いて施術する機会が多かったという。
ちなみに私の父の名付け親は、祖母を贔屓にしていた高名な作家だと聞かされた。
戦前、戦中、戦後と激動の時代を伊東の地で生きた祖父母、そして私の父やおじ、おばたち。
その後、父のきょうだい全員は伊東で結婚し、夫の転勤で居を移した二人のおばを除いて、私につながる人たちはあの町で生きつづけた。
やがて両親、兄、私、そして祖母の5人で市内中心部の家で暮らした。
川まで徒歩1分。海まで徒歩5分。
大きな商店街や老舗の旅館。映画館に喫茶店。海の家や釣り船の手配所。
いつもたくさんの観光客が町を歩き、シラス売りや野菜売りの行商さんが家を訪ねてくるのが日常だった。
実家の2階は「間貸し」と言って、3部屋それぞれに下宿人を置いていた。
ほとんどの人は旅館の中居さんか芸者さん。
今で言う「ワケあり」の女性だったのだろうが、みんな気さくで、私にこっそり花札を教えてくれたりした。
昭和の終わり近く、兄と私が大学進学で家を出たあとに祖母が亡くなり、実家は両親だけの住まいになった。
それでも兄や私の家族をはじめ、両親の友人、親戚、教師をしていた父の仕事仲間や教え子など、たくさんの人が実家を訪れていた。
2009年に母が亡くなり、仙台に暮らす兄が難病のALSを患い、私は自宅のある千葉市に住みながら仕事に追われる日々。
ひとり残った父はそれでも伊東の家を、街を、周囲の人たちを愛しながら、自宅にとどまった。
その父も3年前に亡くなって、実家は私が相続した。
すると伊東市から、固定資産税だけでなく市県民税の請求が来るようになった。
「伊東市内に不動産を所有されている方には、市県民税の納入義務があります」とのことだ。
ついでに言えば、実家に帰省中の移動用に「伊豆ナンバー」の車を購入したが、こちらももちろん自動車税を伊東市に収めている。
私は正式な伊東市民ではないが、伊東市に税金を納め、伊東市で消費し、伊東市にある実家で月に数日過ごしている。
伊東の海を見下ろす高台にある実家の墓参りをするたび、100年にわたってこの地で生きた親族に思いを馳せている。
だからこそ伊東が、あんな騒動で世間の注目を集めてしまうことが本当につらい。
それでなくても伊東、特に私の生まれ育った市の中心部はひどい寂れようだ。
賑わった商店街はシャッターだらけで昼でも薄暗く、夜になれば人っ子一人歩いていない。
実家の周辺も空き家や空き店舗だらけ、医療や福祉、経済も脆弱なまま放置されている。
そういう伊東をなんとかしたい、変えなくては、そんな思いで先の市長選に投票した市民の気持ちを、騒動の渦中にいるあの女性はどう思うのか。
どうにも話が通じない、自己中心的で傲慢な彼女には、私の祖父母や両親が懸命に生きた証など微塵も響きはしないだろうか。
7月末、私は今年度第2期の固定資産税を伊東市に収めた。
むろん市県民税や自動車税は納入済みだ。
伊東市のメインイベントである8月の按針祭に合わせて帰省し、数日を実家で過ごした。
変わらぬおいしい水。取れたての海産物。顔なじみの近所の人たち。
墓参りをして見下ろした海は、おそらく100年前、祖父母の生きた時代からそうは変わらず、いつにも増して美しかった。
なのに今、「伊東」という言葉を口にするのが恥ずかしい。
くやしくて、情けなくて、悶々とするばかりだ。