喜びと、悲しみと、いろいろあった1年

2024年も残り10日あまり。

どうしてこんなに時間の経つのが速いんだろうと、毎度ビックリしている。

かつては1年の間に、人生が変わるほどのつらい出来事に見舞われたことがあった。

今年はと言えば、いくつもの喜びがあった反面、思いがけない悲しみも味わった。

喜びの代表格は、拙著『家で死ぬということ ひとり暮らしの親を看取るまで』が、第55回大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補作に選出されたこと。

5月の大宅賞選考を機に、版元の文藝春秋の役員が高校の同級生だったことがわかって心底驚いた。

担当編集者を通じて40数年ぶりの再会。

お互いすっかりオジサンとオバサンになったけれど、これまでの仕事を振り返りつつ、思わぬ偶然に感謝した。

芥川賞をはじめとする数々の名著を生み出してきた同級生から、「H代さん、これからもいい本を書いてね」と本名で励まされたことは、私の胸に深く刻まれた。

9月には後輩ライターが発起人となり、大宅賞選出のお祝いの会を催してくれた。

これまでお世話になってきた仕事関係者30名ほどに参加いただき、中には入稿(締切)のタイトなスケジュールをやりくりして駆けつけてくれた旧知の編集長もいた。

参加者のひとりである斉藤真理子さんは、10月の活動報告でも書いたように、「快挙」に関わっている。

今年のノーベル文学賞を受賞した韓国の作家、ハン・ガンさんの訳書を手掛け、今もっとも注目される翻訳家だ。

古くからの友人である彼女の努力が実ったこと、そして今後ますます活躍されることを思うと、我がことのようにうれしくてたまらない。

もちろん、会に参加してくださったおひとりおひとりのことが大好き。

それぞれの仕事や生活が順調に、それぞれの立場で活躍してくれることを心から願いたい。

この会にお誘いをしながら、参加がかなわなかった方がおひとりいらっしゃった。

代わりに、と花束を贈ってくださったのは、30年前に私が入校したアイムパーソナルカレッジというスクールの校長、長井和子先生だ。

入校当時の私は、8歳と5歳の息子を持つ、なんの肩書もない一介の主婦。

書くことが好き、ただその気持ちだけで東京・乃木坂にあったアイムの教室に通った。

そのころのアイムは、「主婦の再就職」を掲げていて、私と似たような生徒ばかり。

プロのライターを目指そうとか、マスコミ業界で働きたいとか、大それた夢などまったく持っていない。

夫や子ども、場合によってはお姑さんの機嫌を窺いながら、ちょっとした「自分探しをしたい」、そんな女性が多かった。

実は長井先生自身、専業主婦からコピーライターになり、新人賞を受賞するなど活躍の場を広げた経歴を持っている。

新たな道を切り開いたという自負があるからか、長井先生はずいぶんと甘っちょろい私たちにズケズケものを言った。

「何もやらないうちから、自分にはできないって決めつけてどうするの!」

「一段ずつでも階段を上れば、10年経ったときに違う景色が見えるのよ!」

「ダメもとでいいから、とにかくやってみなさいよ。やらない後悔より、やっちゃった後悔のほうがはるかに価値があるんだから!!」

そんな長井先生の言葉を聞きながら、私は内心で反発を覚えていた。

そんなこと言われても、何のスキルもツテもコネもない。

30過ぎた子持ちの主婦に、いったい何ができるのよと。

けれども時間が経って振り返れば、あの反発こそが私の原動力だった。

何のスキルもツテもコネもないけれど、みすみす尻尾を巻いて逃げたくない。

こうまで言われて、いつかどこかで長井先生を見返したい。

そんな気持ちで自身を叱咤激励し、私もまたあらたな世界に飛び出した。

1年間のアイムの講座修了を待たずに、私は週刊誌の連載を担当するライターとしてプロデビューした。

いきなりの連載、それも当時は相当な販売数を誇っていた週刊誌の仕事だから、当然ながら怖気づいてしまう。

取材のやり方も、執筆の方向性も、編集用語のひとつも知らないのだ。

失敗したらどうしよう、編集部に迷惑をかけたらどうしよう、そう悩んで夜もおちおち眠れなかった。

思い余って長井先生に相談すると、こう言われた。

「仮に失敗したって、それは石川さんをライターとして採用した人の責任だから、気楽にやればいいじゃない」

「編集者はプロでしょ? そのプロがあなたを見込んで連載を任せたんだから、向こうは『この人はやれる』って確信があるはずよ」

「プロの現場は甘くない。だけど、だからこそあなたを選んだ編集部の判断を信じればいいのよ」

単純な私は、そんなもんか…、と急に気持ちが楽になった。

もしもあのとき、「失敗したらとんでもないことになるよ」とか、「責任重大だから、しっかりやりなさい」とか、そんなふうに言われていたら、かえって自信を失くし、早々にやめていただろう。

長井先生のあの言葉は、私の単純さや、心に秘めた負けず嫌いや、なによりも私の人生のターニングポイントを見極めた上での、深い配慮のあるものだった。

恩人と言うべき長井先生は9月の会に体調不良で欠席されたが、その後、順調に回復されているという話を聞いていた。

安心して、贈っていただいた花束のお礼状を出したきりだったが、秋が深まるころ、悲しい知らせが届いてしまった。

人生では、あのとき、という節目が必ずある。

そしてもうひとつ、あの人、という転換者が不思議と現れる。

あのとき、あの人に出会ったから。

あのとき、あの人がこう言ったから。

だから今の自分があることを思うと、人の支えの、なんと尊いことか…、そう思わずにはいられない。