「スーパーJチャンネル」の思い出

このところ仕事と私用で忙しく、毎日バタバタの生活がつづいている。

そんな合間を縫い、ふと思い立って自宅からほど近い県立公園に出かけた。

博物館や音楽ホール、野球場や陸上競技場などがある広大な公園の一角。

色づいた銀杏並木の下を歩きながら、ふと20数年前の日々を思い出した。

そのころ私は、毎週のようにテレビ局の取材クルーと行動を共にしていた。

とりわけ多くの時間を過ごしたのが、テレビ朝日で放映されていた「スーパーJチャンネル」という報道番組のスタッフだ。

当時、夕方の時間帯の民放各局は2時間枠の報道兼情報番組を持っていて、激しい視聴率競争を繰り広げていた。

まだスマホもSNSもない時代、テレビは「ニュース」を知るための最優先ツールだった。

スーパーJチャンネルは番組の中盤に20分ほどの特集企画を設け、日替わりでさまざまなニュースを深掘りしていた。

看板番組だった「ニュースステーション(現・報道ステーション)」の影響もあり、スーパーJチャンネルの特集企画は硬派モノが多かった。

一方で夕方の時間帯は「主婦層」の視聴者がメイン。

そのため、家族や教育、親子問題などに関連する事件を特集することが多く、私の出演機会も多かったのだ。

出演といっても、スタジオで解説するコメンテーターではなく、事件の現場などを歩きながら背景や問題点に迫るという形態。

番組専属のアナウンサーと一緒に行動し、いわゆる「ロケ」で報道していくスタイルだ。

そのころのテレビ朝日は、六本木のANAホテルの隣にあった(今は六本木ヒルズ)。

出演依頼の連絡を受けて局に出向くと、休む間もなくロケバスに乗車する。

ワゴンタイプの大型車には、ドライバー1名、カメラマン1~2名、、音声1~2名、、ディレクター1名、アシスタントディレクター2名、それにアナウンサーと私というふうに、だいたい10人近くが乗車する。

撮影や音声の器材も積み込むため、車内はぎゅうぎゅうだ。

狭い車内で台本を手に打ち合わせをし、現場に着くとすぐにカメラが回る。

並んで歩くアナウンサーと私の前後を、カメラマンや音声、ディレクターが取り囲み、一目で「テレビのロケ」だとわかる。

通行人が立ち止まったり、ときには「何の撮影ですか?」と近づいてきたり、そのたびアシスタントディレクターが人の動きをコントロールしながら説明や謝罪をしていた。

あるとき、文京区でのロケがあった。

今となってはすっかり忘れられているかもしれないが、「ママ友殺人」、「お受験殺人」などとネーミングされた事件のロケだ。

同じ幼稚園に子どもを通わせる母親同士のうち、ひとりの母親がもうひとりの母親の子どもを幼稚園に隣接する公衆トイレで殺害。

スポーツバッグに遺体を入れて、山林に遺棄したというものだ。

私は事件の一報に接したときから、「お受験」というワードが出ることに違和感を覚えた。

ほとんどのマスコミは、「子どものお受験をめぐって母親同士が対立し、思い余った加害者が犯行に及んだ」という見方をしていた。

けれども、家族や子育ての問題を取材してきた私には「違う」という思い、各社の報道に対する違和感が強かった。

実際、裁判の過程でマスコミの見方が間違っていたことがあきらかになったが、事件直後は「お受験」や「ママ友」といったワードが独り歩きし、ミスリードをするテレビ局が後を絶たなかった。

そんな中、スーパーJチャンネルのスタッフは私の違和感に反応してくれた。

「僕らも、お受験やママ友の対立が事件の理由ではないと思います。一緒に取材しましょう」と励ましてくれ、スタッフとともに何度も現場を訪れたり、関係者に聞き込みをしたりした。

ちょうど11月末、ロケ先では銀杏並木が美しかった。

それでも罪もない幼児が殺害されたという事件を追っていたスタッフと私には、その美しさがむしろ悲しかった。

ディレクターとロケ中に何度も、真剣に話し合った。

カメラマンは前後左右、さまざまな「画」から事件の深層を描こうとしていた。

音声は大型マイクや長いコードを手にしながら、アナウンサーや私の声を必死に拾っていた。

何人もの人間が、何日もかけて取材した映像は、20分程度の番組内に収まるよう編集される。

場合によっては、特集企画が急に変更され、せっかくの映像が使われないまま終わることも珍しくない。

事件取材や事件報道は実に地味で、根気のいる作業の連続だ。

努力が報われるとは限らず、ときには批判に晒されることもある。

それでもスーパーJチャンネルのスタッフとの協同はどこか通じ合うものがあり、苦しさの中に喜びも感じられた。

あのときのスタッフたちは、今どうしているだろう。

外からは華やかに見えて、その実、激務に追われるテレビ業界を去った人も少なくないかもしれない。

フットワーク軽く、各地へ取材に行くことも苦にならなかった私も、テレビのタイトなスケジュールはとてもじゃないがもうこなせない。

遠い日々を振り返りながら、秋の空気を胸いっぱいに吸い込む。

抜けるような青空を仰ぎ見て、関わったたくさんの人たちへの感謝の思いが込み上げた。