「便利さ」の行く末

新年度(2019年4月以降)から、全国の公立小中学校で「校内へのスマホの持ち込み」が許可されることになった。

この方向性を示したのは、教育施策の根幹を握る文部科学省だ。

文部科学省は2009年に、「携帯電話やスマホの校内持ち込み禁止」を原則とする通達をしていたが、ここにきて一転方針を変えたのはいくつか理由があるようだ。

特に指摘されているのが保護者の要望。

「災害時などの緊急時に子どもと連絡を取りたい」といった声が多く、「そのためにはスマホがないと…」という話らしい。

確かにスマホがあれば、緊急地震速報をはじめとする各種の情報が入手できる。

交通案内や避難ルートを調べたり、安全な場所を探したり、救急や消防へ通報をすることもできるだろう。

私にも子育て経験があるから、親の不安はよくわかる。

けれども実際に大きな災害に見舞われたとき、果たしてどこまでスマホが役立つだろうか。

アクセスが殺到して通信回線がパンク、電話もメールもつながらない可能性は大きい。

LINEやTwitterなどのSNSは「災害時に役立つ」と言われているが、南海トラフや首都直下型などの大地震が起きれば、大規模な通信障害が発生することも考えられる。

災害とは無関係の話だが、2018年12月にソフトバンクで起きた通信障害では、復旧までに4時間半を要している。

影響は約3000万回線に及び、電話もメールもLINEも使えなくなったソフトバンクユーザーが公衆電話に長蛇の列を作った。

こんなふうにスマホは、決して万能の機器ではない。

そもそもスマホを校内に持ち込めば、いじめや盗撮、盗難、紛失、スマホ依存の助長などさまざまなトラブルにつながりかねない。

これまででさえ、私は数多くの「校内スマホトラブル」を取材してきた。

ある男子中学生は、校内のトイレで同級生に排泄姿を撮影された。その画像を「SNSでバラまく」と脅され、「まかれたくなかったら明日から学校に来るな」と言われる。

彼は翌日から不登校になったが、2週間ほどして加害生徒からメッセージが送られてきた。

「恥ずかしい写真を削除してやるよ」という言葉を信じて会いに行くと、「削除料」として1万円を要求され、その後もお金を巻き上げられてしまう。

加害者は被害者に指一本ふれず、スマホのカメラアプリだけで相手の人生に深いダメージを与えられる。そういう恐ろしい機器を、私たちは今、子どもに使わせているのだ。

高校では生徒同士による盗撮が相次いでいる。盗撮された写真は、「JK(女子高校生)ナマ写真」などという名称で、ネットの専用サイトで販売されたりする。

先生たちは対応に苦慮しているが、義務教育ではない高校ではすでに「校内持ち込み」が許可されているため、「あとは個人のモラルに任せるしかない」、そんなあきらめの声も聞こえるほどだ。

私は著作でも講演でも、スマホやネット利用に対してシビアな意見を述べてきた。

特に子どもの利用に関しては、現状の「野放し」のような状況に少なからず危機感を持っている。

ただし、「スマホを使わせるな」とか、「スマホを使うと子どもがダメになる」といった単純な反対論にはまったく同意できない。

便利さの一方にある危険性を「具体的に教える教育」、あるいはより良いスマホやネット利用について「子ども自身が考えられる教育」の必要性を訴えたい。

簡単に言えば、「どんな便利さも使いよう」だ。

「自分はこの便利さを何のために、どう使って、どんなことをしたいのか」を子ども自身が考え、判断するための材料を与える、それがおとなの役割だと思っている。

これからの20年、30年は、AI(人工知能)やIoT(Internet of Things =さまざまなモノがインターネットに接続すること)が社会構造を大きく変えると予想されている。

今の子どもたちはそうした中でおとなになり、社会の中核を担っていかなくてはならない。

だからこそ「便利だから」という一面的な思考ではなく、その便利さについてさまざまな角度から考える力を持ってほしい。

今月もそんなテーマで各地で講演をしたが、ある講演会場に兄が来てくれた。

兄は12年前からALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病を患い、現在は自宅療養をしている。

ALSは全身の筋肉が動かなくなり、ついには呼吸もできなくなって死に至るが、原因不明で治療法も確立されていない。

人工呼吸器を装着すれば生きることはできるが、それには想像を絶するほどの苦悩がつきまとう。

全身が動かないというのは、たとえばかゆいところがあっても掻くことができない。

話すことができなくなり、「痛い」も「つらい」も言えない。

何も食べられなくなって、「食べる楽しみ」とも無縁になる。

こんなふうにあらゆる体の自由を奪われるが、それでいて脳は正常だから、かゆみも痛みも、暑いも寒いも、全部の感覚が残ってしまう。

まさに難行苦行の人生が予想されるため、人工呼吸器を装着しない患者さんも少なくない。

兄も当初はその選択をしていたが、最終的には人工呼吸器を利用して「生きる」ことを決めた。

ギリギリの決断の背景には、ここには書ききれないほどの事情があるが、その中のひとつが「重度障害者用のパソコン」だ。

額に貼り付けたセンサーで「まばたき」の動きを感知し、それを文字入力や各種の操作に変換するという仕組み。

幸い、兄は「まばたき」の機能は残っているため、目を閉じたり開いたりすればパソコンの操作ができる。

そうして入力した文字でヘルパーさんに意思伝達をしたり、誰かとメール交換したり、ほしいものをネットショッピングしたりして、日々を懸命に生きている。

講演の前、久しぶりに兄の家を訪ねて部屋に入ると、「ありがとう!」、「じゃあね!」、そんな音声が響いた。

話せない兄に代わってパソコンから音声が出てくるのだが、こういう「便利さ」は本当にうれしくありがたい。

技術の進化は、経済発展や社会生活の向上をもたらすと言われている。

確かにそうなのだろうが、お金や利便性だけでなく、多くの人に「希望」をもたらすこと――。

そんな願いを持ちながら、私の取材はつづいている。