人生の最期はどこで?
かれこれ1ヵ月経ってしまったが、2月10日(土)、静岡市で講演会&トークセッションを行った。
主催は、地域フリーペーパー「リビング静岡」を発行する静岡リビング新聞社だ。
私は静岡県伊東市出身。
さらに昨年8月に上梓した『家で死ぬということ~ひとり暮らしの親を看取るまで』(文藝春秋)は、伊東市の実家でひとり暮らしをしていた父を、遠距離介護の末に在宅看取りした経緯をつづったもの。
こういうご縁で、静岡リビング新聞社が「特別講演」を企画してくださった。
その講演は、「人生の最期はどこで?」という、なかなか直球のタイトルだ。
最期、つまり「死」を考える内容にもかかわらず、定員150名の募集に対し200名近い応募があった。
当日の会場は満席。40代から80代の参加者は女性が多いが、中高年の男性の姿もそこかしこに見えた。
特別公演は二部構成で、一部は私の講演会、二部は静岡市内で在宅療養支援診療所を開業している静岡ホームクリニックの内田医師とのトークセッションだ。
ちなみに在宅療養支援診療所とは、24時間365日訪問診療ができる体制を整え、訪問介護や訪問看護などの事業者と連携しつつ、「在宅死」や「在宅看取り」をサポートする診療所だ。
講演では、病院や施設で亡くなる人、自宅で亡くなる人の具体的なデータを提示し、それぞれの背景や選択肢の在り方についての話からはじめた。
つづいて私の実体験。
「家で死ぬ」という意思を曲げず、入院も施設入所も拒んでいた父をサポートした3年近い日々の出来事を、さまざまな角度から紹介した。
一口に「在宅死」と言っても、家にいるときにたまたま亡くなってしまう突然死のような死もあれば、長く入院していて「最期だけ自宅で過ごす」、「残り少ない日々を家族で見守る」という場合もある。
後者の場合、入院中の病院から自宅に戻る際に、訪問介護や訪問診療の体制が整備される。言い方はよくないが「最期」までの期間にある程度のめどがついているため、家族も相応の覚悟や手厚いサポートをしやすい。
一方で私の父のように当初から入院や施設入所を拒み、「住み慣れた家で、自分らしい生活をつづけたい」という場合には、そもそもの介護や医療体制を作ることからして大変だ。
父の場合、87歳で大腿骨骨折により緊急入院し、入院時の検査で末期腎不全と診断された。
専門医の診察で人工透析を勧められたが、父は「この年になって、機械につながれて長生きするのは嫌だ」と返した。
専門医は詳しい説明もしないまま、「嫌ならもう来なくていいです」と不快さを隠さなかった。
人工透析=標準治療、それを拒む人の気持ちや生活背景をおもんばかるような余裕は、多忙な医療現場にはないらしい。
介護保険を申請し、父は要支援2と認定されたが、1年後の更新時、「非該当」とされてしまった。
要するに介護保険は打ち切り、訪問介護やデイサービスなどそれまで利用していた介護保険サービスは使えなくなったのだ。
当時88歳のひとり暮らし、末期腎不全で「死に向かっている」という状況にも関わらず、介護保険が使えないとは思ってもみなかった。
講演会の参加者は、こうした現実に一様に驚いていた。
体調が悪化したら、日々の暮らしに問題が生じたら介護保険を使えばいい――、そんな予想通りにならない現実があることを知ったからだろう。
さらに1年後、89歳になった父は病状悪化で意識喪失、昏倒して腰椎を圧迫骨折した。急きょ再度の介護保険を申請したが、結果はまたも要支援2だった。
腰椎を骨折しひとりで歩くことはおろか、トイレにも行けない。
末期腎不全で、それこそいつ死んでもおかしくない。
そんな状態のひとり暮らしの高齢者でも、訪問介護は週に二度でそれぞれ1時間。訪問看護は週に一度で30分という体制だった。
私は仕事を休業し実家で父と同居、終末期の父のかたわらでサポートしたが、「家で死ぬ」、「家で看取る」ということは生易しいものではなかった。
反面、父に深く関わったことで得たもの、気づいたことも決して少なくない。
最期に向かう日々を共有できたことはかけがえのない体験だったし、人が死ぬという現実の一部始終を間近にしたことは、私自身の人生にも大きな学びを与えた。
参加者の中には、私の講演中、何度も涙をぬぐう人も少なくなかった。
おそらくご自身の状況と重ね合わせ、さまざまな思いが込み上げたのだろう。
第二部のトークセッションでは、実際に在宅死や在宅見取りに日々関わる内田医師から、現状報告や具体的なアドバイス、医師としての視点が語られた。
地域に根ざし、地域の人の力になりたいと奮闘する内田医師のような方が増えることが、ますます進む超高齢化社会にとっては極めて重要なことだと思う。
また一方で、現状では約8割の人が病院(診療所)か高齢者施設で亡くなっている。
とりわけ地方では、訪問診療クリニックをはじめとする在宅医療や在宅介護体制を構築することがむずかしく、生活が維持できなくなれば施設入所、そんな選択肢しかない場合も多い。
施設と聞くと、「自由がない」、「ちゃんと面倒を見てもらえるのか」といった不安を口にする人も多い。
施設スタッフによる入所者への虐待などが報じられるとなおさら不安が募るが、もちろん誠実に、手厚くサポートしてくださる施設も存在する。
特別講演では、内田医師が在籍する静岡ホームクリニックとともに、市内で介護施設を運営する「生陽会」の方も簡単な施設紹介を行った。
主催者である静岡リビング新聞社の担当スタッフは、実のお母様を生陽会の施設に入所させているそうで、「本当に親身になってくださる施設なんです!」と感謝を口にされていた。
そういう施設が増えることも、在宅医療を推進するのと同じくらい、やはり大切なことだろう。
病院でも、施設でも、あるいは自宅でも、私たちは誰しも必ずどこかで「最期」を迎える。
お金をどうしよう?
誰に介護を頼めばいいの?
病院、施設、自宅、結局どうすればいいんだろう?
そんなふうに不安を覚える人は多いが、だからこそ現状と現実を知り、さまざまな視点で情報収集することが大切だ。
拙著の中で、「家で死ぬ」「家で看取る」ことのリアルを伝えたつもりの私だが、正直、どういう最期が正解なのかはわからない。
それぞれの人が、それぞれの環境や考え方、個人的な事情や希望の中で考えていくしかないだろう。
ただひとつ言えるのは、「死に方」を考えるだけでなく、そこに至る「生き方」こそが大切だということだ。
今、少しでも力を発揮できるなら、わずかでも誰かのために動けるなら、自分なりに懸命に前を向いて生きていく。
自分では気づかないところで自分を支えてくれる多くの人への感謝を忘れず、今日という日を精一杯生きるその先に、自分なりの最期が訪れるように思う。