中学生の君たちへ

先日、愛知県内の公立中学校で講演会を行った。

数年前から中学生を対象にした講演依頼が増えているが、コロナ禍のため中止や延期が相次いだ。

今回伺った中学校も昨年度からの持ち越しでの実現だが、会場の体育館に入れるのは3年生のみ。2年生と1年生は教室で映像を視聴することになった。

昨年、全国の公立中学校ではあらたな問題に直面した。

2020年7月、文部科学省が学校内への「スマホ持ち込み」を条件付きで容認したのだ。

詳しい経緯は9月に刊行した『スマホ危機 親子の克服術』(文春新書)』で述べているが、それに加えて同省のGIGAスクール構想により、小中学生に1人1台のデジタル端末(タブレットやノートパソコン)も配布されている。

中学生が学校にスマホを持っていく。

小学生でも自分専用のタブレットやノートパソコンを所有する。

こうした状況下、子どもたちのスマホ・ネットトラブルはますます深刻化する恐れがあるだろう。

そこで中学生向けの講演会では、スマホ・ネット利用の当事者である彼らが身近に感じられる問題――SNSでのつながりや個人情報流出のリスク、ソーシャルゲームの裏にある巧妙な仕組み、動画投稿や動画視聴、いじめなどについてわかりやすく伝えることにしている。

たとえば「ソシャゲ」(ソーシャルゲーム)は、基本無料で遊べるのものが多い。

ではなぜ無料なのか。

ゲーム会社は利益を上げるためにどんなビジネス戦略を立てているのか。

ゲームをやめられないのはどんな心理が働いているのか。

そんな背景を含めて解説することで、彼ら自身に自分のゲーム利用の問題を考えてもらうことにしている。

むろん、単に「危険」を教えるのではなく、「スマホやネットとじょうずにつきあうためにどうすればいいか」といった具体的な情報も伝えている。

たとえば現役の塾講師がボランティアで運営する学習サイト『ゆめのば』は、中学校3年間分、5教科の学習を無料で教えてくれる。

近くに塾がないとか、部活動が忙しくて決まった時間に通塾できないとか、塾の費用が高額で困っているとか、それぞれの子どもに事情がある。

そんなとき、手元のスマホを使えば「好きな時間に、好きなペースで勉強を教えてもらえる」という有益な利用方法があるわけだ。

こんなふうに、スマホを「遊びの道具」から「自分の生活に役立つ道具」へと変える。

こうした情報を得ることで、中学生はあらたな視点を、今までとは違ったスマホとの付き合い方ができると思う。

さらに私の講演では、必ず「社会との関わり」について話している。

SNSやゲーム、動画に時間を費やしながら、一方でそんな自分に「これでいいのか」、「どうしたらいいだろう」と不安を抱えている子どもが多いからだ。

自分が誰かに必要とされている、もっと言えば自分には生きる価値がある、そう感じられることが大切で、そのためにあなたにもできることがある、と実際の事例紹介をしている。

この講演会でも中学生のボランティア活動や地域のお年寄りと関わったことで生きる希望を見出した高校生の例などを話したが、講演終了後の質疑応答である質問が飛び出した。

「僕も社会のために何かしたいと思ってるんですが、何をしたらいいですか」

3年生だという男子生徒からの質問に、私は思わずハッとした。

「社会のために何かする」、その「何か」を知りたいのは中学生なのだ。

3年生ならともかく、1年生ではつい1年前までは小学生だったわけで、知識も社会経験も未熟な彼らが「社会のため」と言われてもピンとこないのは無理もない。

いかに彼らが納得できるか、そして「自分にもできる」と思える現実的な社会との関わりは何か、私は頭の中を高速回転させながらこう回答した。

「社会のために、と言うと、皆さんは何かすごいことをしなくちゃいけないと考えるかもしれません。でも、決してそんなことはないんですよ」

「たとえば保護犬とか、保護猫って聞いたことあるでしょう? 捨てられたり、飼い主が見つからなかったりする犬や猫を迎え入れる。そういうことが、社会のためにできる何かなんです」

その瞬間、会場にいた中学生の空気が変わるのをはっきりと感じた。

もしかしたら実際に保護犬や保護猫を飼っている生徒がいたのかもしれないが、おそらく「そういうことでいいんだ」、「それなら自分にもできそう」という納得を得られたのだろう。

そう、「社会のために」というのは決して大げさな話ではない。

自分の持っている力を、「誰か」のために少しだけ使ってみる。

その「誰か」とは必ずしも人ではなく、犬でも猫でも、鳥でも虫でも、なんだっていいと思う。

 

我が家は1年前、愛猫のミッキーを亡くした。

捨てられていた子猫を保護してから11年5ヵ月。

手のひらに乗るほどだった小さな命が、いかに大きな喜びと幸せをもたらしてくれたかは語り尽くせない。

悲しみはいまだに癒えないが、これには後日談がある。

ミッキーが亡くなる3ヵ月ほど前、我が家の庭に1匹の猫が迷い込んできたのだ。

最初は近所の飼い猫かと思ったが、とにかく警戒心が強い上に、薄汚れ、やつれている。

人の姿を見るとあっという間に逃げて身を隠してしまうので、ひとまず夜にフードの入った小皿を庭の物陰に置いて様子を見ることにした。

朝になるとフードはなくなっているが、当の猫は身を隠したまま。

そうして3週間ほど経ったとき、ひょっこり玄関先に現れてミッキーと「ご対面」をした。

そのころのミッキーは病気のせいでひどく衰弱していたが、相手の猫は「ミャー、ミャー」と声を上げながら、いかにも「仲良くして」と言わんばかりにすり寄っていく。

一方、人間に対しては「シャー!!」と牙を剥いて威嚇するので、私のほうは近づけない。

捕獲もできず、当然保護もできないまま離れたところから動画を撮り、かかりつけの獣医さんに見てもらった。

「幼猫ではないけど、1歳にはなってないと思います。とにかく警戒心があるうちは下手に刺激しないほうがいいですよ」

そう言われてからしばらくすると、散歩に出かけるミッキーと私たち家族のあとをついてくるようになった。

特にミッキーには「子分」のように従い、すっかり仲良しになっている。

このタイミングで私たち人間に対する警戒心や威嚇も減り、ミッキーと一緒なら家に入れるようにもなった。

念のため「行方不明の届けが出ていない」ことを確認し、動物病院での検査やワクチン接種を済ませてあらたな家族として迎え入れた。

ほどなくミッキーとのお別れがあり「一人っ子」になったが、今ではすっかり我が家のアイドルとして君臨している。

小さな命を救うことは、社会という大きな集合体に直接関係するものではないだろう。

だが、誰かを愛し、支え、助けることが結局は自分のためになるのだと実感できることは、社会の中での「人としての生き方」に通じていくと思う。

今、中学生の彼らは10年後に社会で働くようになり、20年後には社会の中核を担っていく。

そんな彼らが、SNSやゲームや動画ばかりで時間を浪費するのはあまりに惜しい。

できれば自分にできることを探し、自分という存在が社会の中でどんな役割を果たせるのか、少しずつでも考えてくれることを願っている。