尾木ママとのパネルディスカッション

尾木ママこと、教育評論家の尾木直樹先生と一緒にお仕事させていただいた。

「ぎふオレンジリボンフォーラム」という、児童虐待防止のためのパネルディスカッションだ。

当日の会場は満席ですごい熱気。主催の方によると、「抽選」で入場者を決めたそう。

さすがに大人気の尾木ママ。そして、オマケの私(苦笑)。

まずは尾木ママの基調講演。

その後は、私がコーディネーターを務めてのパネルディスカッションが開かれた。

基調講演での尾木ママは、すばらしいパワーとエネルギュッシュな話術、さらにステキな笑顔。

最前列の関係者席で拝聴した私は、自分の仕事を危うく忘れそうになるくらい、この講演に感動した。

児童虐待防止がテーマなだけに、ふつうなら堅い話に終始しがちだけど、尾木ママはいっぱい「笑い」を取りながら、肝心なことはハズさない。

「叩いたり、怒鳴ったりしなくても、子どもは育てられるのよ。今、体罰でも、虐待でも、『愛のムチ』なんて言う人がいるけど、あんなのウソ。叩かれるのが怖くて、仕方なく言うこと聞いてるだけ。『叩かれたから強くなれた』なんて言う人もいるけど、そうじゃないの。叩かれなくて、別の方法で接してもらってたら、もっと強くなってたかもしれないじゃない」

…と、例のオネエ言葉で明るくお話しされるのだ。

確かにそのとおりだと私も思う。

暴力という手段で思い通りにしようとしても、相手は暴力が怖いから「服従」するのであって、なぜ自分がそうしなくてはいけないか、「本質」のところはわからない。

『暴力が怖いから、〇〇をやる』というのと、『〇〇はやったほうがいいと教わったから、そして自分も納得したからやってみよう』というのは全然違う。

前者は「暴力」という手段を使った関係性だが、後者は「コミュニケーション」による関係性。

そもそも、「自分はどちらの関係性がいいか」と聞かれたら、ほとんどの人はコミュニケーションによる関係性を持ちたい、と思うだろう。

だったら、「暴力で教え込む」とか、「殴ってでもしつけてやる」なんていうのが、決していい効果を生まないことはわかるはずだ。

とはいえ、児童虐待の増加は残念ながら止まらない。

2011年度は、全国の児童相談所で対応に当たった件数が約6万件と過去最多を記録した。

さまざまな虐待の現場を取材する私には、この背景に「3K」を感じる。

関係性、環境、そして金(カネ)、の3Kだ。

関係性というのは、前述したように、人と人との関係によるもの。

たとえば夫婦仲がうまくいかないとか、嫁姑でもめているとか、近所の人とつきあいがないといった場合。

関係性がギクシャクしていると、たとえば「子どもが泣く」という現象に対して感じ方が違ってくる。

良好な関係の中でなら、「あらら、どうして泣いてるの? 大丈夫?」と思えても、希薄な関係では「なんなの、あの子。うるさいったらありゃしない」と、同じ泣き声でも違って聞こえるものだ。

これは、親しい人同士のおしゃべりは声の大きさが気にならないが、他人のおしゃべりはうるさいと感じてしまうのと同じこと。

つまり、関係性がうまく機能していないと、「子どもの泣き声がうるさい⇒親に文句を言ってやろう⇒文句を言われた親は、子どもに対して『アンタのせいよ、静かにしなさい』と怒りが沸く⇒子どもを叩いたり、怒鳴ったりする」という図式だ。
 
次の環境は、一部関係性とも重複するが、「希薄化した人間関係」や「個人主義」、「子ども、子育てに対する許容のなさ」が広がる社会環境のこと。

少し前までの日本は、もっと子どもに対しておおらかだった。

子どもというのは、うるさくて、いたずらで、トロトロしてて、でもしょうがないよ、それが子どもだから、っていう寛容さがあった。

ところが今は、快適で清潔、効率性、スピード感が、これでもかと求められる時代。

汚したり、騒いだりする子どもは、「邪魔な存在」、「迷惑をかけている」と思われがちだ。

子持ちや子連れ=迷惑な存在、と思われてしまう環境での子育てが、苦しくなったり、つらかったりするのは自明のことではないか。

もっとおおらかに、「いいんだよ、みんな昔は子どもだったんだから。いっぱい迷惑かけて育ってきたんだから。お互い様よぉ」と言ってもらえる社会なら、こんなに虐待は増えていないと思う。

そして、金。

厳しい雇用環境、危うい経済状況、先行きの見えない閉塞感の中で子どもを育てることに不安を覚える親が少なくない。

なにしろ子育ては、1年、2年で終わる話じゃなく、20年とか25年とか、長い期間での「生活の安定」が必要だ。

しかも、子どもの成長につれてお金はどんどん必要になる。支出に応じて収入も右肩上がりになればいいが、この時代、よくて現状維持か、悪ければ子どもに一番お金がかかる時期に親がリストラされるなんて山ほど聞く話。

子どもを育てるためにはお金がいる、でもそのお金はこの先もちゃんと確保できるのか、と不安に駆られる親にとっては、些細な子どものいたずらも「些細」では終わらなかったりする。

実際、私が取材する現場でも、「給料日前(家計が苦しい時期)にはつい子どもに当たってしまう」とか、「ローンで買ったブルーレイディスクを壊した子どもを、怒りに任せて床に叩きつけた」なんて話がしょっちゅう出てくる…。

ただし私は、お金さえあれば虐待は減る、とは考えていない。もちろん子育てするのにお金は必要だけど、一方で「お金だけ」では子どもは育たない。

仮にお金がなくたって、支えてくれる人、助けてくれる人があれば、子どもはちゃんと育つと思っている。

「よかったらウチで一緒にご飯食べようよ」とか、「子どもを見ててあげるから、その間に就職の面接に行ってきたら」とか、そういう人の「手」と「心」があってはじめて、子どもは育っていくものだと思う。

今、そうした「手」や「心」の代わりに「お金」を支給して子どもを増やそう(少子化対策ね)という動きがあるけれど、するとますます「個人」ですべてを抱え込むことになって(人を頼る代わりに、お金で解決すればよくなるから)、いっそう関係性が希薄化し、「お互い様」は絶望的になってしまう気がする。

…と、尾木ママとのパネルディスカッションに話を戻そう。

すばらしい講演をされた尾木ママだが、なんと1年前から「講演は一切お断り」をしているそうなのだ。テレビ出演や執筆活動などでお忙しいとのこと。

「だから、今日の講演とパネルディスカッション、例外中の例外なのよぉ。みなさん、本当にラッキーね」と参加者に向けて笑っておられた。

もちろん、コーディネーターの私も本当にラッキー。

それは単に、「尾木ママと一緒に仕事をした」というのではなく、子どもの問題を取材する私にとって、あらためて学ぶこと、感じることがあったからだ。

尾木ママが「ママ」になる前、お堅い教育評論家の尾木直樹先生だった時代から、私は彼の著作を何冊も読み、勉強させていただいた。

今、あらためてその肉声にふれ、一緒に児童虐待問題を考える機会を得て、「がんばろう」という力がふつふつ沸いた。

暴力という手段で思い通りにすることは、相手を力で服従させることにほかならない。

「殴ってでもしつけてやる」なんていうのは、決してしつけではない。

そうしっかり伝えていくために、私も毅然と前を向いて進んでいきたい。