この幸せがあればいい

今年も日本中、いろんなところに伺った。春は北海道に、夏は奈良や兵庫や山形に、秋は大阪や群馬に、そして冬は京都や福井や富山…。
 
取材でも講演でも「日帰り」を基本にしているが、地方での講演がつづいたり、翌朝早くに予定が入ったりすると、どうしても宿泊することになる。

予約したホテルに到着し、部屋に荷物を置いてほっと一息。

…で、ここからの夜の時間がやたら長い。

ふだん家にいるときは、とにかく時間に追われている。

なにしろ自宅は、私にとって家事と仕事の両方をこなす場所。

食事作りに後片付け、洗濯物を干したら掃除、ゴミ出しに植木の水やり、冷蔵庫の食材チェックだの、浴室のカビ取りだの、ヒーターに灯油を給油だの、次から次へとやることがある。

そしてもちろん、仕事だってせっせとこなさなくてはならない。

もとは洗濯物を室内干ししていた3畳ほどのスペースを改造し、小さな仕事部屋にしたのは15年前。

以来、このささやかな空間で、数えきれないくらいの原稿を書いてきた。

ワードを立ち上げ、前日までの原稿を推敲。ときには全部削除して最初から書き直し、なんてこともある。

届くメールに返信しつつ、ネットで情報検索したり、資料を読んだり。

取材のアポ取りに段取り、取材が終わった人にはお礼のメール、そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎてしまう。

一旦仕事を中断して洗濯物を取り込んで畳む。

近くのスーパーに買い物に行って、今度は夕食の準備。

シューシュー湯気を出す圧力鍋の横で、一人暮らしをしている実家の父に安否確認の電話。受話器を耳にはさんだまま、野菜を切ったり、フライパンを使うのにも慣れた。

ようやく夕食が済んでも、ハイ一段落とはいかない。

ここからまた、後片付けやアイロン掛け、翌日子どもに持たせるお弁当の下ごしらえ、昼間に処理できなかったメールの返信などなど。

あまりのあわただしさに、あぁ――――、もうひとりになってせいせいとしたいっ! と爆発しそうになる。

でも、天の救いか、爆発寸前のころを見計らうように「宿泊」の予定が入る。

やったぁ、地元のおいしいものを食べちゃうぞ、ホテルでゆっくり保湿パックするぞ、としばしの高揚感に包まれる。

なのに、そのひとりの時間を、私は楽しめない。

決して広くはないシングルルームが、なぜだかガランと広く感じられる。

地元のおいしいものを食べに行くはずが、「お弁当でいいかな」なんていきなり貧しい発想に。

コンビニで買ってきたお弁当をひとり食べ終わると、あぁ、やることがない…と意気消沈してしまう。

テレビのチャンネルをあれこれ変え、動画サイトやショッピングサイトをネットサーフィンし、でもどれも全然楽しくない。

だったら早寝を決め込むか、と思っても、妙に目がさえて眠れないのだ。

無事に仕事を終えて帰路に着くとき、私はしみじみ「やっぱり家っていいな」と思う。

決して自慢できるような家ではないけれど、むしろ「問題山積」している我が家だけど、それでも早く家に帰りたい、と思う。

帰れば帰ったで、洗濯機をまわしたり、お米を研いだり、またあわただしく時間に追われ、イライラが募った挙句、子どもたちを怒鳴り散らすというのに(汗)。

玄関を開けて部屋に入ると、3年前に家族の一員となった猫のミッキーが、待ちかねたように「ニャーン」とスリスリしてくれる。

台所には、私の留守中、息子が作ったらしい野菜炒めの残りが…。

こっそり味見をすると、水っぽくてちょっと苦笑。

これも留守中、息子が干した洗濯物は、袖がねじれたままでナマ乾きの上、シワだらけで、ついため息がもれる。

それでも、ミッキーに猫用カニカマのおやつをあげながら、心の底からじんわり込み上げるものがある。
悩みや、迷いや、疲れを数えるよりも、この幸せがあればいいんだと、今はここが私の居場所なんだと、優しいあたたかさに包まれる。