「まさか」のときに見えるもの

人生には「まさか」という名の坂がある、と言われる。

私もこれまで何度となく、「まさか」を経験した。

大切な人の突然の死など心が打ち砕かれるようなこともあったし、積み上げてきたものがガラガラと崩れ落ちることもあった。

そんなふうに大きな「まさか」とは違っているが、長く仕事をしていると思いもかけない状況が降ってくる。

たとえば8年ほど前のこと、ある地方で夜に講演会を行った。

終了したのは午後9時過ぎ。そこからタクシーで講演の主催者が手配した宿泊先へと向かったが、地方の道は真っ暗で土地勘のない私には右も左もわからない。

30分ほどかけて目的のホテルに到着してホッとしたのも束の間、フロントに向かうとどうも様子がおかしい。

チェックイン用のカウンターがなく、「小窓」のような窓口で部屋のキーを渡され、ついでに「お一人様ですか?」と聞かれた。

「はい」と言いながら、頭の中にいくつもの「?」が渦巻いて、嫌な動悸がする。

もしやここは…、そう焦りながら部屋のドアを開けると、ドーンと大きな円形ベッドが置かれているではないか?!

ベッドの向こうにはスケスケのお風呂があり、部屋の隅には怪しげなグッズの自動販売機まである。

嫌な動悸はMax、私がいるのはまぎれもなくラブホテルに違いない!

世慣れた私も、どうしよう…、と頭を抱えた。

今ならスマホで近くの「ビジネスホテル」を検索することもできるだろうが、当時はまだ携帯電話を使っていて調べようがない。

予約をした主催者に電話をしようかと考えたが、すでに午後10時近く。

しかも寂れた地方では、そう簡単に別のホテルが見つかるとも思えない。

私は腹をくくって、ラブホテルに泊まることにした。

スケスケのお風呂に入り、円形ベッドに横になったが、思いがけない「まさか」に気持ちが高ぶってなかなか眠れない。

えーい、もうこうなったら開き直ってやる!

再度腹をくくって、ベッドに横たわりながらテレビのリモコンを手にした。

電源を入れると「見放題」の文字とともにアダルトビデオが映し出され、「あ~ん」とか、「いい~」とか、独特の嬌声があふれてくる(笑)。

ひとまずアダルトビデオを見て、「へぇー、今のAVってこんなふうになってるのか」と勉強(?)し、そのうち自然と深い眠りについた。

そう、思わぬ「まさか」もポジティブに捉えれば、ひとつの人生経験と、なにより次に活かせるいい勉強の機会になる。

おそらく主催者は、ここがどんなホテルなのかを知らずに予約したのだろう。

怒りや困惑がなかったわけではないが、この件以降、講演会の主催者が宿泊先を予約するというときには事前にホテル名を教えてもらうことにした。

「役所の人が予約しているから大丈夫」、「大きな団体だから間違いない」、そんな思い込みだけで「人任せ」にしてはダメなのだ。

移動ルートも、講演会場も、宿泊先や周辺の地域情報まで自分で事前に検索し、綿密に準備することを心がけた。

それでも全国各地を飛び回れば、それなりの「まさか」には遭遇してしまう。

そのたびにポジティブに割り切ったり、気持ちを引き締めなおしたりしてきたが、先月はまた新しい「まさか」に遭遇した。

「公益財団法人」を名乗る大きな団体からの講演依頼で、仲介に某講演会エージェントも関わっている。

私はエージェントの担当者に言われるまま準備を進めていたが、講演会の3日前になって「主催者が告知をしていない」という事実が判明した。

要は「〇月〇日、〇〇の会場でこんな講演会があります」という宣伝をしていない。

宣伝がなければ、世の中の誰も講演会があることを知らないわけで、「じゃあ当日、いったい誰が来るんですか?!」という話だ。

エージェントの担当者もあわてふためき、急遽、主催団体のホームページで告知してもらったが、その程度で集客が見込めるとは到底思えなかった。

担当者に「当日、何人くらいの参加者がありそうですか?」と尋ねると、「来ても2、3人」だと言う。

会場は都内の一等地、定員250人のホールだ。

そこに「2、3人」では、講師の私がやりにくいことはもちろん、参加する人たちだって居たたまれないだろう。

時間が迫る中、これ以上エージエントや主催者を頼ってもらちが明かない。そう判断した私は自分の力で集客することにした。

「告知がない」ことが判明した日、偶然ながら「アイムパーソナルカレッジ」という女性向けスクールの授業を任されていた。

スクールの担当者に生徒さんへの声掛けやチラシ配布をお願いし、ついでに授業の中で私からも事情説明をした。

生徒さんの何人かが、「当日、なんとか都合をつけて行きます」と言ってくれる。

また別の生徒さんは、「予定が入っていて行けませんが、代わりに会場の近くで講演会のチラシを配りましょうか」と声を上げてくれた。

いやいや、いくらなんでも無関係の人にチラシ配りなんてお願いできないわ…、と固辞したが、後日、本当にチラシ配りをしてくれたことを知った。

ここに掲載した写真はその一部、会場近くの書店に頼んでチラシを置かせてもらったという。

また講演の前日には、「LETS」というライタースクールでの授業があった。

こちらはスクールの責任者が過去の受講生や友人、知人に連絡を取り、「SNSで拡散する」と協力を申し出てくれた。

LETSでも授業の際に事情説明をすると、やはり生徒さんの何人かが「行きます」と手を挙げてくれた。

迷っている人には、別の人が声をかけ、「一緒に行こうよ」と誘ってくれている。

私もオバチャンならではの押しの強さで(笑)、「来てよ、お願いよ」と猛プッシュした。

こうして当日、二つのスクールの生徒さんたちがそれぞれ連れ立って参加してくれた。

蓋を開けてみれば、エージェントから聞いていた当初の「2、3人」は見当たらない。

つまり生徒さんたちが来てくれなければ「ゼロ」だったわけで、正真正銘「まさか」の事態だったと言っていい。

ギリギリのところで「まさか」を回避できたことはうれしかったが、もっとうれしいのはたくさんの人たちが力を貸してくれたことだ。

おまけに参加した人たちが、「来てよかった」、「すばらしい講演だった」と素直な喜びを伝えてくれる。

ひとりひとりの思い、行動、そして喜びの声が、私に大きな力をもたらしたことは言うまでもない。

「人という字は支え合う形」などと言われるが、あらためて自分が他者の力に支えられていることを痛感した。

今回の「まさか」から、あらためて心に刻んだことがある。

「言ってみよう」、そして「やってみよう」だ。

何かの問題に直面したとき、あるいはなんらか新しいことに挑戦しようとするとき、誰だってためらいや恥ずかしさや逃げの気持ちが生じる。

あの人に頼んだら迷惑かもしれない、こんなことを言ったらバカにされるかも、そんな気持ちが先に立って、つい「言い訳」を優先してしまう。

実のところ今回の私も、「当日、誰も来なくてもまぁ仕方ないか」という思いが頭をかすめた。

集客できなかったのは私のせいじゃない、参加者がいようがいまいが貰えるお金(講演料)は同じだし…、そんなふうにいくつも「逃げの言い訳」を考えた。

けれども言ってみて、そしてやってみたならば、また新しい気づきや出会いを得られる。

「まさか」はこんなふうにおもしろい。

「まさか」の先に、それまでとは違った世界が見えてくる。

それは私に限ったことではなく、もしかしたらスクールで学んでいる生徒さんたちに一番伝えるべきことなのかもしれない。