主婦が作家になるとき

旭川市での講演会を終え、帰りがけに立ち寄ったのは「三浦綾子記念館」。
三浦綾子さんは、『氷点』や『塩狩峠』、『ひつじが丘』、『泥流地帯』など、北海道を舞台に数々のベストセラーを生み出した著名な作家だ。
とりわけおよそ60年前、1965年に刊行された『氷点』は、当時の主婦層を中心とした読者から圧倒的な支持を得た。
私の母も、そのひとり。
読書好きだったこともあり、『氷点』をはじめとした三浦さんの本を買いそろえ、実家の書棚にはたくさんの単行本が並んでいた。
どうして三浦さんの本が母のような主婦に支持されたのか。
今になって考えると、ひとつには家族間のドロドロした内容があったように思う。
たとえば先の『氷点』では、医師の妻が不倫をし、相手の男との密会中に娘が殺されてしまう。
妻の不貞を知った医師である夫は、愛娘を殺した犯人の子どもを養女に迎え、妻には事実を隠したまま育てさせる。
まだまだストーリーはつづくのだが、一見、当時の主婦が夢中になったメロドラマのような要素があったため、自然と引き込まれたのだろう。
とはいえ、実際にはメロドラマのようなストーリーが二転三転し、重厚な人間模様と、登場人物それぞれの複雑な心理が丹念に描かれている。
なにしろこの本の根幹は「原罪」。
どんな人間も罪を犯し、あるいは誰かの罪を赦して生きている、それが特筆すべきテーマであり、キリスト教を信仰していた三浦さんがもっとも訴えたかったことだ。
同じように彼女の作品の中には、人々の愛情や優しさとともに、憎み合いや差別、偏見、社会の理不尽さもしばしば描かれている。
それは、主婦や嫁というレッテルを貼られ、自己犠牲を当然視されながら耐え忍ぶことが多かった当時の女性に、なおのこと響いただろう。
もうひとつ、三浦綾子さんが主婦から支持されたのには、彼女自身が無名の主婦だったということもあるはずだ。
旭川市の女学校を出て一時は小学校の教師として働いていた彼女は、24歳から結核や脊椎カリエスなどの病気に苦しみ、長期入院を余儀なくされている。
37歳のときに結婚し、営林局に勤務する夫とともに雑貨店を営みながら細々と生活。
そうして41歳のとき、朝日新聞で募集されていた懸賞小説に応募し、見事一位を獲得した。
ちなみにこのときの賞金は、1000万円という破格のものだった。
応募作品の『氷点』は、新聞連載から単行本の刊行とつづき、瞬く間にベストセラー作家になるわけだが、この「主婦が作家になった」というインパクトも非常に大きかったと思う。
健康を害し、偏見や差別に苦しむ長い月日を過ごし、ようやく夫とのささやかな幸せを得る。
ふつうならそこで満足しそうなものを、雑貨店を営みながら主婦業をし、なおかつ40代になってから小説を書き上げるという挑戦心には脱帽だ。
一方でそうした挑戦が、同じような境遇にいる多くの主婦たちに、「自分も何かしたい」と思わせたこともあるだろう。
声高に、女性の権利やフェミニズムを叫ばずとも、「主婦」という立場から見える景色をもとに、家族や社会の不条理を問うたその姿勢は、多くの主婦の代弁者とも捉えられたのではないだろうか。
私の母も、妻、母、そして夫の母と同居する嫁という立場でありながら、40歳を過ぎて短歌をはじめた。
実家のある伊東市の芸術祭に応募して、二度、最優秀賞を獲得している。
最初に最優秀賞を獲った作品を、私は今でも覚えている。
【子ら二人と 夫(つまと読む)の黙したる夕げには 皿の音さえはばかられたり】
思春期だった兄と私が、なにかしらの理由で父と対立し、家族が囲む食卓が緊張感に満ちている。
そんなとき、主婦たる自分は「皿の音」を立てるのも慎重になるほど不安と悲しみが込み上げる、そんな心境を歌ったものだ。
母は歌集を出すことを夢見ながら、結局果たせず亡くなってしまったが、おそらく胸の奥には「書く」ことへの熱い気持ちを秘めていただろう。
だから母にとって、あるいは当時の多くの主婦たちにとって、「主婦から作家になった」三浦綾子さんの存在は、ひときわ大きいものだったに違いない。
私自身、主婦から作家になった。
家事をこなし、二人の子どもを育て、嫁という立場でもさまざまな経験を重ねた。
若いころ、実家の書棚にあった三浦綾子さんの本を何度となく読んだが、今になってあらためて読み返したら、どんな気持ちになるだろうか。
同じ本であっても、おそらく違う景色が見え、違う心境になるだろう。
手の届かない、あまりに偉大な先輩作家である三浦綾子さんの本から、今一度学んでみよう。
なにより、私自身の人生における「罪と赦し」を、真摯に振り返りたいと思う。

