遠い日の子どもたち
私は静岡県伊東市で生まれ育った。海に山、良質な温泉とおいしい食べ物に恵まれた観光地だ。
「伊東出身」と言うと、大抵の人は「いいところですねぇ。うらやましい」と返してくる。
確かに故郷は誇らしく、数えきれないほどの思い出が詰まった土地だ。
一方で観光地は、訪れる人にとっては楽しい場所でも、そこに住む人にはまた違った一面を見せる。
私が子どもだった昭和の高度成長期、海や旅館には大勢のお客さんが押し寄せていた。
書き入れ時の夏、観光業に携わるおとなはものすごく忙しい。
旅館や土産物店、観光船に海の家、飲食業、サービス業などに従事しているおとなは、夏休み中の子どもに構う暇などほとんどない。
中には「ほったらかし」状態に置かれるような子どももいた。
私の父は地元の小学校の教師をしていた。
当時の教師は今とは違い、学校が夏休みの間はそれほどの業務がない。
そんな父は親に構ってもらえない教え子を見かねたのか、彼らを自宅に呼び、あれこれと面倒を見ていた。
朝の9時過ぎ、「せんせーい」という声がして、数人の男の子が勝手知ったるふうに玄関から入ってくる。
父は子どもたちに漢字の書き取りや算数ドリルをやらせ、しばらくすると「さぁ、みんなで海に行くぞ!」と声を上げる。
まだ幼かった私は、半ば強制的に同行させられ、父の教え子たちと一緒に海で泳ぐ羽目になった。
私は彼らと一緒に過ごすことがイヤでたまらなかった。
父のことを「パパ」と呼ぶと、「うわぁ、パパだって。気持ち悪い、ゲロ吐きそう!」と、からかわれる。
持参した浮き輪を壊されたり、履いてきたゴムぞうりを海に流されたり、ときには隠れて頭や顔をぶたれたこともあった。
なんとか仕返しをしたかったが、腕力ではかなうはずもない。
そこで私は、彼らの嫌がらせを父に告げることにした。
それも実際の行為より大げさに、話を盛って伝え、男の子たちを懲らしめてやろうと考えた。
父の威光を利用して、彼らがこれでもかと叱られる姿を想像し、心の奥で「ざまあみろ」とほくそえむ。
子どもはときに残酷な存在だが、私もそんなひとりだったのだ。
あれこれと話を創作し、いよいよ父に告げようとした矢先のことだ。
私はたまたま、近所のおばさんたちのおしゃべりを耳にした。
数人のおばさんが、男の子たちの噂をしている。
どうやら、彼らの家庭の事情をおもしろおかしく話題にしているらしい。
私生児、水商売、飲んだくれ、バクチ好き、尻軽、泥棒猫、流れ者…、そんな言葉が飛び交う。
おばさんたちは眉をひそめながらも、どこか興奮した面持ちで、甲高くおしゃべりをつづける。
幼かった私には、それぞれの言葉の意味するところはわからなかった。
それでも、おばさんたちの卑しい口調と表情から、男の子たちの家庭になにやらとんでもないことが起きていることは察せられた。
おばさんのひとりが、ふと私に目を留めて、嘲笑するように言った。
「あんな男の子たちと遊んだりして、気をつけなさいよ。あんたのお父さんも、いくら学校の先生だからって何考えてるんだかねぇ。ろくでなしの家の子なんだから、いちいち世話なんか焼くことないのに」
私は頭が真っ白になった。
いたたまれず、その場から走って逃げた。
父が批難されたこともショックだったが、男の子たちが「ろくでなしの家の子」と言われたことにひどく混乱していた。
彼らに仕返しをしようとしていたはずなのに、いざ彼らが蔑まれ、傷つけられるとたまらない。
見てはいけない現実を見た気がして、私は彼らの行為を胸の底に仕舞い込んだ。
あれから半世紀近くの年月が過ぎ、私は当時とは違った立場で子どもたちの現実を見ている。
社会はずっと豊かに、生活は驚くほど便利に、人々はより自由に、活動的になった。
子どもの人権が重視され、さまざまな支援策が整い、福祉や教育環境は充実した。
けれども、ここに至ってなお、あのころと同じような暗さを抱える子どもたちがいる。
おとなに守られる子と、おとなから見放された子の落差は大きく、それはあのころの私と男の子たち、そのままのようにも思える。
久しぶりに故郷の海を臨むと、沖には豪華客船の「飛鳥」が停泊していた。
夏休みを観光地で過ごす子どもの一方で、誰の助けもなくつらい日々を送る子どももいるだろう。
その落差は、子ども自身の力ではどうすることもできない。
私はふと、遠い日の、あの男の子たちと過ごした夏を思い出す。
私がすっかりおばさんになったように、彼らもまたメタボのおじさんになって、それでもどこかで元気に暮らしていてほしいと思う。