フリーランスの壁

私はずっとフリーランスで働いている。

大変なことはヤマほどあるけれど、あんまり従順じゃない自分にはこの働き方が合っていると思う。

もちろん、フリーランス=自由に働ける、という意味ではない。

実際の仕事の現場では、出版社やテレビ局、講演エージェント会社などたくさんの組織と関わる。

たとえば「出版社」と一口に言っても、都心の一等地にビルを構える大きな会社から、数人の社員でやりくりする小規模の会社までさまざま。

会社ごとに進行方法や指示系統、何より「カラー」が違うから、それなりの気苦労はつきまとう。

ただし、これも考え方次第で、「いろんな会社の、いろんなやり方が見えておもしろい」という捉え方もできる。

ひとつの組織に縛られない分、思いがけない仕事や人間関係を得られるというメリットも大きい。

私はこうしたポジティブさを大切に、フリーランスとして働いてきた。

それでも、いまだに乗り越えられない壁がある。それは、事件や裁判の取材だ。

仕事柄、児童虐待や少年事件などを取材する機会が多い。

所轄の警察や行政機関が事件について発表することを、「報道資料」、「プレスリリース」、「記者会見」などと言う。

「報道資料」は、新聞社やテレビ局などの「報道機関」には自動的に送られるが、私のようなフリーランスのところには一切通知されない。

記者会見も同様で、そこに出席できるのは「記者クラブ」に加盟している新聞社やテレビ局の社員だけ。

フリーランスは、たとえどんなにその事件を取材したくても、記者会見への参加資格がない(企業のPRや芸能人の記者会見など例外はある)。

さらに、裁判の取材もむずかしい。

いつ、どの裁判所で裁判が開かれるのかという情報も、「報道機関」への通知のみ。

フリーランスは自分で裁判日程を調べて傍聴に行くが、「抽選」ということも少なくない。

大きく報じられた事件では法廷内の座席数を上回る傍聴希望者が集まるため、傍聴席の抽選、つまりクジ引きが行われるのだ。

私は何度となく、この抽選にはずれている。

はずれたら、あとは落胆した気持ちを引きずってスゴスゴと帰るしかない。

時間とおカネを使い、取材に対してどんな熱意を持っていても、入り口の段階でシャットアウトされてしまう。

一方、記者クラブに所属する人たちには、ちゃんと「報道席」が用意されている。

わざわざ抽選の列に並ばなくても、いわば指定席が確保できるというわけだ。

この報道席、実はいつも埋まっているわけではない。

若い記者たちは、法廷を出たり入ったり、遅刻や途中退席がとにかく多い。

報道席がガラガラ、つまりどこの会社も取材に来ていないことだってある。

それならば、空いている席をフリーランスに貸してくれたらいいのに、と思うけれど、決して応じてはもらえない。

かくして、私の裁判取材は、傍聴席のクジ引きに当たるか、はずれるかという運次第なのだ。

先日、拙著「ルポ 居所不明児童~消えた子どもたち」の中で取り上げた少年の控訴審が開かれた。

拘置所にいる少年を取材し、その後も交流をつづけてきた私は、なんとしてもこの裁判を傍聴したかった。

被告席に座る彼の言葉を、現実の、この耳で聞きたいと思っていた。

控訴審の傍聴は抽選になった。

降り出した雨の中、私は東京高裁の抽選の列に並んだ。

この日は幸運にも「当たり」を引き傍聴することができたが、単純に喜べるものでもない。

私と同様に、少年を支援する一般の人たちが少なからず抽選にはずれてしまったようで、後日、弁護士さんから「お詫び」の手紙が届いた。

あたりまえのように「報道席」に陣取る若い記者たちは、そうした人たちの思いをわずかでも感じているのだろうか。

この先も、いくつもの事件や裁判があることだろう。

それらを取材し、多くの人に伝えていきたいと思うが、一方でフリーランスならではの壁は容易に崩せない。

報道の自由、大手メディアではそんな言葉がよく使われる。

その言葉を使っている人たちは、「記者クラブ」や「報道席」についてどう思うのだろう。

自由を主張する一方で、自分たちだけの「特権」に鈍感であるのなら、それはいくらなんでも傲慢だよ、と従順じゃない私は噛みつきたい。