人間のリアリティ~再読『流れる星は生きている』

猛暑のせいにしても仕方ないのですが、新たな仕事の企画がちっとも進まず、このところ悶々とする日がつづいています。

世間がお盆休みの最中に担当編集者と顔を突き合わせて、ああでもない、こうでもないと意見交換しましたが、なんだか先行き不安だらけ…。

取材メモや収集した資料をまとめるのも気が重く、つい書棚にある本に手が伸びます。

いわば現実逃避なんですが、何年ぶりかで再読した本に大きな発見がありました。

それは、藤原てい著『流れる星は生きている』です。

終戦後、旧満州から3人の幼子(5歳、3歳、生後1ヵ月)を連れて決死の引き揚げを果たした母のものがたり。大ベストセラーになったので、ご存じの方も多いでしょう。

ちなみに、このとき母に連れられて引き揚げた幼子のひとりは、のちに『国家の品格』を著した数学者の藤原正彦氏です。

最初にこの本を読んだのは、15年くらい前だったように思います。当時はまだ私自身が子育てに追われていたので、筆舌に尽くしがたい困難に立ち向かい、子どもの命を守ろうとする「母の強さ」に大きな感銘を受けました。

けれども今、あらためて読み返してみると「母の強さ」や「壮絶な引き揚げ体験」というだけの話ではないことに気づかされます。

生きるか死ぬか、明日をも知れないギリギリの状況の中で、それでも藤原ていは冷静に周囲の人々を観察し、人間のリアルな姿を見事に看破しているのです。

たとえば、手荷物だけを持って無蓋貨車(屋根のない貨物列車)に乗り、何日もつづく逃避行の場面ではこんな記述があります。

焼きつけるような日差しの下で人間はひからびてゆく植物のように陰を求め、水を求めた。子供たちはひっきりなしに水を私に要求する。時折止まる小駅で持っている水筒に水を汲もうとするが、いつも力の強い男たちに先を越されて、むなしく貨車に戻らねばならなかった。(中略)
「おかあちゃん、水が汲めた?」
 そういって待っている二人の子供に私はなんといっていいか分からない。
「汲めなかったの、ごめんなさい」
 そういって席に座って、うらめしく熱い空を見上げて深い息をついた。ふと前を見ると特等席にいる若夫婦は一升びんの水を鍋にあけている。ざっという快い音が水の飲めない人たちの耳をそばだたせている。
 若い男はどっこいしょと鍋を持ち上げる。多分私たちに分けてくれるんだなと思っていると、その鍋は隣に座っている丸顔の奥さんの前に置かれた。
「お鍋で顔を洗うなんて初めてね」
 丸顔の奥さんは、たのもしい若い夫の顔を見ながら無造作に両手を突っ込んで、ざぶざぶと顔を洗う。そしてその水は、惜しげもなく汽車の外に捨てられてしまった。

強者と弱者、持てる者と持たざる者との対比が深く胸を突く文章です。

しかもこれが「事実」であったことの重みを思うと、なお深くズシリと響くものがあります。

そしてつくづくと思うのは、これは幼子を持つ「弱き母」だったから見えたリアリティだということ。

屈強な者たちに押しのけられ、奪われ、虐げられる側にあったからこそ、彼女は強者を徹底的に観察し、人間の欺瞞や強欲を文章という形で暴き出せたのでしょう。

私も、微力ながらペンを握る立場のひとりとして、何ができるだろうかと考えます。

渇きに苦しむ人々の眼前で捨てられていく水―――。

それは過去の話ではなく、おそらく今もこの社会のどこかで起きている現実です。

少なくとも児童虐待の現場では、飢えと渇きに苦しむ子どもたちが救いを求め、声なき声を上げているはずです。