「毒親介護」に込めた私の思い
「文春砲」の週刊文春を発行する株式会社文藝春秋。
週刊誌や月刊誌はもちろん、多くの書籍を扱うトップランナーの出版社だけあって、文庫と新書だけでも毎月30冊が発売される。
1日あたり1冊、並みの数字ではない。
先月、私の新刊もこの中の1冊として発売された。
「毒親介護」――なんとも物騒なタイトルだ。
「毒」などという文言を目にして、不愉快になる人もいるだろう。
一方、「自分のこと」として思わず手に取りたくなる人も少なくないのではと思う。
実際、発売前に文藝春秋社内で本の告知がされたとき、「この本を待ってました!」、そんな声が複数の社員から上がったという。
とりわけ女性社員からは熱烈な支持があったそう。
担当編集者(男性)は、「やっぱり女性にとって介護の問題は切実なんでしょうね」と私に言った。
とはいえこの本は、単なる「介護の本」ではない。
タイトルが示すように、「毒親」を介護する子ども側の苦悩や葛藤を描いたものだ。
子ども時代に親から暴力や暴言を受けていた、執拗な干渉に苦しめられた、親の浪費や自分勝手な行動に振りまわされてきた――、それでも親を介護せざるを得ない人たちの切実な声を紹介している。
もうひとつ、介護がはじまってから、あるいは親が老いてから、はじめてその「毒」に気づいた、というパターンもある。
それまでは「ふつうの親」と思えていたはずなのに、いざ老いた親と関わるようになって親子関係の問題が浮き彫りになる。
ああ自分はずっとこの親に我慢してきたのかもしれない。
本当は自分の心をごまかしながら生きてきたんだ。
そんなふうに気づいて、老いた親と向き合うことがたちまち苦しくなる。
実のところ、こちらのパターンのほうが厄介だ。
なにしろ当の親は「あきらかな毒親」ではなく、むしろ「ふつうの親」に見えるのだから。
周囲の人からは、「あのお母さんのどこが問題なの?」、「いいお父さんじゃないか」などと言われ、介護する子ども側の苦悩は封印される。
それどころか、「いい親なのに嫌うなんて、私のほうが悪いんだ」と罪悪感を覚え、ますます懸命に親と向き合おうとする。
やがて抑えきれない「本心」の泥沼にはまっていき、当の子どもはとことん苦しんでしまうのだ。
もうひとつ、親の老いにともなって「きょうだい」との関係性もむき出しになる。
複数の子どもがいながら特定の人に介護が集中し、ほかのきょうだいは知らんぷり。
知らんぷりのくせに「親のカネ」は欲しい、相続になったら平等だ、と平然と主張してくる。
これでは介護を担う子どもはたまったものではない。
…となにやら暗い話を書き連ねてしまったが、私がこの本に込めた思いは実のところ「希望」だ。
何をきれいごとを言ってるんだ、と思われる方は、ぜひ「毒親介護」を読んでいただきたい。
できれば最初から最後まで、そして「あとがき」に込めた私の思いにふれてほしい。
私も介護を経験した。
それもふつうの人とはかなり違った形で経験し、言葉にできないほどの苦しみも味わった。
だからこそ、今まさに介護を担っている人たちの苦悩がよくわかる。
これから介護をするかもしれない、そうなったらどうしようと不安を感じる人の気持ちも確かに理解できる。
苦悩や葛藤、不安を抱えながらも、あらたな希望を探すためにどうすればいいのか、それは私自身への問いかけでもあった。
その問いかけこそが、「毒親介護」を書いた原動力だ。
物騒なタイトルの陰に、実は私自身の人生が反映されてもいる。
文藝春秋社内の刊行物陳列棚に並べられた私の本は、いかにも毒々しい帯(笑)。
それでもこの表紙の奥に、ページごとに、私や、私の取材に応じてくれた人たちの思いが込められている。
だからぜひ、多くの方に読んでいただきたい、そう心から願っている。