光あるところ

こう書くと「信じられない?!」と言われてしまいそうだが、私は基本的にネクラで小心者だ。

ついでに心配性で、貧乏性でもある。

仕事柄、華やかな場所に出る機会は多い。

テレビに出演したり、講演会で全国を飛び回ったり、出版関係の懇親会やマスコミ向けのイベント参加もある。

そういう場所で、私はいかにも「堂々と振る舞う人」に見えるらしい。

言いたいことをはっきり言い、物怖じせず、場馴れした雰囲気を漂わせているようだ。

「らしい」とか「ようだ」と言うのは、自分にはそういう意識がないからで、むしろ緊張でいっぱいいっぱいになっている。

児童虐待関連の全国大会の場で、何人かの登壇者が交代で講演する機会があった。

私の前に、文部科学省や厚生労働省の代表者が講演を行い、「国としてこんなことをがんばってます。児童虐待をなくすために一生懸命やってます」といった趣旨の話をされた。

偉い人たちの立場からしたら、確かにそうなのだろう。

けれども、現場を歩く私からすると違和感が拭えなかった。

現に、救われない子ども、悲劇的な結末に陥る子どもたちが後を絶たない。

そういう子どもたちに対して、「力及ばず申し訳ない」という気持ちを表すこともなく、自分たちの実績や活動方針を語って終わり。

それでいいの? とモヤモヤしてたまらないのだ。

あとから登壇した私は、自分が見聞きした現場の状況をありのままに話した。

批判めいたことを言ったつもりはなかったが、会場にいた人からはこんな感想をもらった。

「石川さんって堂々としてるねぇ。あんなにビシッと言っちゃって、お役人さんが青い顔をしてたよ」
「すごくパワフルですよね。闘う女って感じがしました」

そういう声を聞いてから、私は「えええ?!」とビックリする。

自分ではそんな意識はなく、あくまでも「現場報告」だった。

あたりまえのことをあたりまえに伝えただけで、むしろ「もっとちゃんと話せればよかったなぁ」と反省点ばかり浮かぶ。

闘う女どころか、実際の私は小心者の貧乏性で、たいしたことができない自分にいつも落ち込んでいる。

たとえば、デパートで買い物するのが怖い。

一番の理由は「価格」で、値札を見るだけでビックリし、そそくさとその場を後にしたくなる。

店員さんがやってきて、「何かお探しですか?」なんて声をかけられたら、「いえ、あの、その…」としどろもどろになってしまう。

結局、何も買えずにフロアから去り、せいぜい地下の食品売り場でお惣菜を買って帰る程度。

それも「高いな、もったいないかなぁ…」なんて、どこかに罪悪感のようなものがある。

同じ業界にはステキな趣味を持つ人がたくさんいて、ゴルフとか、旅行とか、ライブに行ったとか、そんな話をしばしば聞く。

一方の私は何の趣味もなく、個人的にどこかに出かけるような行動力もない。

時間があるときに好きな本を読むか、動画を観るくらいで、ひきこもりの時間にホッとしている。

講演会で地方を訪れることも多い。

「各地のおいしいものが食べられていいですね」と言われるが、そういう機会はめったにない。

コンビニでお弁当とカップみそ汁を買って、ビジネスホテルの部屋で黙々と食べる。

そのほうが落ち着くし、ネクラな自分の性分に合っているのだ。

ときどき、私ってつまらない人生を送ってるのかな、と思う。

働くだけ働いて、これといった楽しみも持たず、空いた時間にはひとりでぼんやりしているなんて、これでいいのかな、と思う。

そんな話を親しい女友達にしたら、こう返ってきた。

「あんたバカだねぇ。ネクラな自分がいるから、光のある場所でがんばれるんだよ。表も裏も光が当たってたら、すぐに干からびちゃうでしょ」

そう、光と陰は一体だ。

私だけでなく、おそらく誰の人生にも光の向こう側には陰がある。

もっと言えば、広くこの社会そのものに、光を支え、陰ながら働く無数の人たちがいる。

私に何かの光が当たるとき、陰で支えてくれるたくさんの人の力がある。

小心者でネクラな自分はそうそう変えようがない。

それでも、陰ながら支えてくれる人たちへの感謝とともに、光の場所では堂々と、パワフルな闘う女でいなくては、と思う。