やっと脱稿!!

講演会で福岡市を訪れたら、博多駅前は見事なクリスマス・イルミネーション、そしてクリスリマス・コンサートが開かれていた。
巨大なツリーとコンサートステージの前には数々の屋台が並び、屋外の飲食スペースでたくさんの人が冬の夜を楽しんでいる。
博多という土地柄からか、インバウンドの観光客でごった返し、まるで違う国に来たような錯覚さえ覚えた。
この夜は暖かかったので、私も少しの時間、バイオリンの音色に耳を傾けながらイルミネーションを楽しんだ。
おばさんがひとりでいても全然絵にならないけど、まぁそこは大目に見てほしい。
なにしろこれまで、こんなふうに楽しむ余裕などなかったのだ。
新しい本の企画がスタートしたのは去年の6月。
すんなり通った企画だが、そこからが難航した。
取材は進まないし、ようやく取材できても思ったような原稿にならない。
書いては消し、書いては消し、いったいどれくらいの原稿をボツにしただろうか。
そうしているうちに、自分が何を書けばいいのか、読者に何を与えられるのかもわからなくなってきた。
自分の本なんだから好きに書けばいいじゃないか、そう思う人もいるかもしれないが、私たちの仕事は「好きに書く」というのはあり得ない。
少なくとも私は「好きに書く」という経験は一度もない。
何もこの仕事に限ったことではないけれど、プロの仕事というのは「お客さんありき」。
たとえば建築の仕事をする人が、自分の好きなように家を建てられるかと言ったら違うわけで、いかにお客さんの用途や希望に合わせるかを考える。
同じように私の仕事も「読者」というお客さんがいるわけで、その人たちにどんな気づきや納得を与えられるか、そこを考えないとはじまらない。
とはいえ新しい本は私自身の経験を踏まえたものなので、どうしても個人的な感情が入りやすい。
感情を入れないと無味乾燥のようだし、入れすぎるとベタな打ち明け話みたいになるし、どうバランスを取っていくか頭と心がグルグルしてしまう。
もうひとつ「結論」をどうするかという難題もあった。
さまざまな問題を報告し、では結局どうすればいいのかという結論を示すのに、現実離れした理想論を言うのでは、読者は「はぁ?」と不満になるだろう。
といって現実ばかりを重視して、いわば夢も希望もないような感じで終わったら、読者は「えー、なんだこれ?」と嫌な読後感になってしまう。
ゴールが見えないマラソンを走っているようで、根が小心者の私は焦りと迷いの日々。
一時はこの仕事をして以来、はじめてリタイヤを考えるほど追い詰められた。
いつまで経っても進まない原稿に、さすがに編集者も不安になったのだろう。
気心の知れた優秀な編集者だが、「11月末までに入稿できないか」と連絡があった。
これまで催促などしてこなかった編集者がそう言うのは、先方もよほどの事情があるに違いない。
連絡があった11月初旬の時点で、まだ残り一章分が書けていなかった。
若くて元気なころなら1ヵ月で一章分くらいスイスイ書けたものだが、なにしろ長いスランプでとっくに自信など失っている。
それでも火事場のバカ力と言えばいいのか、お尻に火が付いたと言うべきか、あれこれ挌闘してなんとか先日すべての原稿を入稿した。
すぐに編集者から「脱稿、お疲れ様でした!」とメールが来て、思わず泣きそうになった。
ちなみに入稿とは著者が書き上げた原稿を編集者(編集部)に渡すこと。
当の原稿は編集者のチェックを経てさらに印刷所に送られるが、こちらも入稿という。
脱稿とは著者がすべての原稿を書き終わることで、意味としては同じようなものだが、立場によって使い分けされている。
そう、「脱稿」とは著者用の言葉で、「すべての原稿を書き終えました」と言えるのは著者だけなのだ。
以前、高名な作家・山崎豊子先生の自伝エッセイを読んだとき、「脱稿した瞬間、仕事部屋を飛び出してバンザイした」みたいな記述があったけれど、その心境は本当によくわかる。
もちろん私など足元にも及ばないが、原稿を書くという孤独な作業から脱出した、それはこの仕事をする人に共通しているのではないだろうか。
ここからさらに初校(印刷所から本の書式で出される最初の原稿)の著者校正。
再校(初校の校正が反映された二度目の原稿)の著者校正。
さらに校了(編集作業がすべて終了すること)と長い行程が待っている。
これまで何十回と同じ作業をしてきたのに、慣れて楽になるどころか年々むずかしさを感じるのはなぜだろう。
勢いだけで突っ走れていたころとは違い、周囲の見る目や期待、自分自身の自負、そんな縛りがあるのだろうか。
気づけば今年も残りわずか。
この1年はたえず何かに追われているような心境だったが、ちょっとだけ解放された気分でクリスマス・イルミネーションを見上げた。
その後は近くの居酒屋に入り、もつ鍋とゴマサバ、天ぷらなんかで「ぼっち忘年会」をした。
これくらいのご褒美はあってもいいよね、そう思ったが、5,000円超のレシートを見て「うわっ、もったいなかったかも」と少しビビった。
なんのことはない、いつまで経っても私は小心者で、この1年もたいした成長などしていなかった。

