人の力
気づけば2015年も、あれよあれよという間に年末が押し迫っている。
北は北海道、南は鹿児島まで全国を飛び回り、例年以上にたくさんの方とお会いした。
あらためてこの仕事は、人との出会いなくしては成り立たないと痛感する日々でもあった。
今年早々に会ったのは、某新聞社の記者さんだった。
1月3日、お正月気分のお客さんでごったがえす駅ビルの喫茶室で、ある少年事件についての情報をいろいろと教えていただいた。
記者さんからの情報を得て、お正月明けに向かったのはさいたま地方裁判所に隣接する拘置所だった。
底冷えのする狭い面会室で、透明のアクリルボード越しに話をしたのは、当時18歳の少年だ。
強盗殺人事件の被告となっていた彼は、小学5年生から学校へ通えなかった。
貧困や虐待環境に身を置き、各地を転々としながらホームレス生活を送っていた。
彼の話を受けて、その成育歴や生活を辿るため、寒風の中、また各地に赴いた。
悲惨な成育歴を辿りながら、「もしも彼に誰かの助けがあったなら…」と数えきれないほど考えた。
ほんの少しの気遣いや心配、そんな周囲の協力があったなら、彼の人生は違ったものになっていただろう。
もしも彼の人生が変わっていたら、罪もなく命を奪われる被害者の方も生まれなかっただろう。
そう思うと、つくづく「人の力」のあるなしが、誰かの人生に及ぼす影響について考えざるを得なかった。
ところで、この「人の力」というものが、別の取材の場ではどうにも軽んじられていることも気がかりだ。
それは、「ふつう」と言われるような生活を送る、圧倒的多数の子どもの現場である。
彼らは暖かい家庭に恵まれ、親に庇護され、多くのものを買い与えられている。
代表的なのがスマホやタブレット、通信型ゲーム機で、今では小学生でもスマホを持つケースが増えている。
そうしてスマホを駆使し、ネットで多くの情報を集め、ゲームや音楽、動画、LINEに代表されるSNSなどを思う存分楽しむ。
楽しむこと自体はいいとして、私が「気がかり」なのは、スマホやネットに対する万能感である。
スマホさえあればなんでもできる、ネットを利用すればどんなこともわかる、取材の中ではそういう言葉をしばしば耳にした。
都内で開かれたアイドルの握手会に来ていた中学生の女子グループは、握手会の情報はもちろんのこと、次に移動する場所への行き方、入るお店、買いたい物の価格、無料で休憩できるスペース、すべてをネットで調べ上げ、「完璧!」だと笑っていた。
こうした情報収集は、むろん彼女たちに限った話ではない。
知らない場所に行くのなら、スマホの「乗換案内」や「地図」のアプリを使ってルートを調べ、安くておいしいランチを食べたいならネットのグルメサイトで検索する。
そんな行為が当然であり、スマホやネット利用で万全の生活になるという思考が、子どもの世界に確実に浸透している。
確かにスマホやネットはこの上なく便利で、私たちの日常生活に欠かせない必需品とも言っていい。
だから、それらを利用していいのだが、ではスマホやネットが「使えない」事態になったらどうするか? こちらの思考が、すっぽり抜けているのだ。
言うまでもなく、スマホは「機械」である。故障することもあるし、そもそも電源がなければ動かない。
もしも「乗換案内」や「地図」のアプリが使えなかったら、どうやって知らない場所に行けばいいか、この思考を持てない子どもに何人も会ってきた。
彼らにとって、スマホやネットが使えないことは想定外。
「使えない」となったら、「どうすればいいのかわからない」という。
私が「人に聞いたら? たとえば電車の乗り換えなら駅員さんに聞けばいいし、道順なら通りすがりの人に教えてもらってもいいんじゃない?」と言うと、「そんなの無理~」と返ってくる。
人に聞く、人を頼ることに「壁」を感じるのは、おそらく彼らがそういう経験を得ないまま育ってきたからだろう。
実際、私たちの生活は、まずはネット検索、そういう流れになり、人に頼るよりも「機械」頼みに移行している。
機械を使うことで成り立つ日常を過ごし、機械への万能感を持ち、まるで人よりも機械のほうが優れているような気にさえなっている。
けれどもよくよく考えれば、その機械を生み出したのは「人」なのだ。
便利なスマホを開発し、サクサク動くアプリをプログラミングしたのは「人の知識や努力」があったから。
膨大なインターネットの情報の源は、まぎれもなく人の知恵であり、世界中の人々の知の集合体なのだ。
つまり、誰かの力があってこそ、多くの人がその恩恵を受け、快適な生活をつづけられる。
機械に支えられているのではなく、実は「人の力」によって支えられているということを、次世代の子どもたちにはぜひ知ってほしいと思う。
さて、年末にはまた各地に赴き、たくさんの方とお目にかかった。
写真は、山口県山口市で講演会をした折に、山口市人権推進課の職員の方たちと撮ったもの。
講演会では、地元の市民の方だけでなく、子どもたちも参加して熱心に話を聞いてくれた。
終了後、小学校高学年くらいの女の子を連れたお母さんが私のもとにいらした。
「うちの子、ちょっと太り気味なので、学校の友達からひどいことを言われたりしていたんです。でも、今日のお話を聞いて、子どもも私もすごく元気が出ました」と話す。
傍らで、当の女の子が恥ずかしそうに頷き、ニコッと小さな笑顔を見せてくれた。
その笑顔に、私のほうが力をいただいて、ちょっと胸が熱くなった。
人はこうして、誰かとの関わりの中で力を得ていくのだと思う。
ほんのわずかな関わりでも、人は誰かの力になれるし、また誰かから力をもらえる。
今年はじめに会った少年は、今もまだ拘置所の中にいる。けれども、その彼にも多くの人が関わるようになり、手紙や面会を通じて支援の輪が広がっている。
一人の人間ができることは、わずかかもしれない。
そして、人は決して万能ではない。
それでも、人の力がもたらす可能性を探して、あらたな年に臨みたいと思う。