来てくれてありがとう

かれこれ10年ほど前、マスコミ業界の懇親会で「犬が好きか、猫が好きか」という話題が出た。

当時、私は断然「犬派」だったが、同席した男性作家がやけにデレッとした顔でこんなことを言った。

「いやぁ、僕も前は犬が大好きで、猫はどっちかっていうと嫌いだったんですよ。ところが、ひょんなことが飼いはじめたら、これがかわいいのなんのって」

へぇー、と私は内心冷めていた。かつての彼と同様、私は猫にいいイメージを持っていなかったのだ。

子どものころ、何度か捨て猫を保護したことはあったけど、家の事情で飼うことが許されなかったという負い目もあったかもしれない。

その後、犬を飼っていた時期が長いので、なおさら猫に関心がなかった。

飼い犬が死んで、喪失感が大きく、もう二度とペットと暮らすことはないだろうと思っていた。

ところが、4年前の初夏の朝、我が家の猫の額ほどの庭の隅で、小さな赤ちゃん猫が鳴いているではないか?!

ひぇ~。ウソでしょ!

そのときの私の心境は、「うちじゃ飼えないよ、困ったな」に尽きる。

仕事は忙しい。

犬ならともかく猫は困る。

飼うとなったら最後まで責任を負わなくてはならないが、そんな余裕も自信もない。

いろんな感情が渦巻いて、そのまま子猫を庭に放置して室内に逃げた。

なのに、子猫はミャアミャア鳴きつづけ、私は居たたまれず庭と部屋を行ったり来たり…。

そのころ、私の大切な人が重い病気になり、生死の境ギリギリのところにいた。

その人の病気だけでなく、私の愛する人たちに次々苦しいことが起きていた。

当然、私も重い苦しみの中にいて、毎日、歯を食いしばって生きていた。

そんな私が、新しい命に責任を負えるかどうか、「ミャアミャア」を聞きながら何度も自問した。

一時の同情では動けないぞ、と繰り返し自問した。

自問しながら、それでも私は小さな猫のぬくもりを感じて、その命の鼓動に突き動かされるものがあった。

そうして、子猫は我が家の一員となり、すっかり大きく育ってくれた。

かわいい家族を迎えてから、また次々とつらいことがあった。

大切な人との永遠の別れがあり、また別の大切な人との突然の別れがあり、仏教で言うところの「愛別離苦( あいべつりく)」に苦しんだ。

疲れ果て、絶望し、仕事も生活も何もかも投げ出したいと思ったとき、いつもは素っ気ない猫がなぜかすり寄ってくる。

甘えた顔で、鼻をこすりつけたかと思うと、次の瞬間「じゃあね」というように離れていってしまう。

ちょっと、なんだよ、おまえ~、と思いながら、それで救われている。

あのまま、ずっと猫に優しくなんかされたら、かえって悲しみにどっぷり浸ってしまうだろうから。

私は猫に問いかける。

「おまえはどうしてうちに来たの?」と。

そんなこと知らねーよ、とでも言いたげな目をして、猫はぴょんと高いテレビボードに上り、悠々と毛づくろいをする。

「しょうがないね。おまえが遊んでくれないなら、私は仕事すっかー」

そう言ってパソコンの前に座ると、ニャーンとひと声、励ましの声(?)をかけてくれる。

このささやかな幸せに感謝するとき、思うことがある。

あの大震災で、人だけでなくたくさんの動物が犠牲になった。

飢えに苦しみ、無残に死に追いやられた家畜もいた。

突然の避難のために、家族の一員だった猫や犬を置いて逃げなければならない人たちがいた。
 
あるいは、我が家の猫と同様に、どこかに捨てられる動物が、今日もいる。

もっと言えば、これは私の専門分野であるのだけど、「棄てられる子ども=棄児、置き去り児」が、この国には年間二百人もいるのだ。

偶然出会ったひとつの命から、学んだことがいくつもある。

一緒に暮らしはじめた小さな命から、救われたことが何度もある。

来てくれてありがとう。

そうつぶやきながら丸い背中をなでると、私が書き損じた原稿の上で、猫は大きく伸びをする。