新幹線に乗りたかった頃

今月は講演会と取材の予定がビッシリで、3日に1回は新幹線に乗っている。

東北、上越、長野、それに東海道といろんなルートがあるけれど、平日にせよ休日にせよ、とにかくほとんどの場合は混んでいる。

特に平日の午前に西へ向かう東海道新幹線、そして同じく平日の午後7時とか8時に東へ向かう東海道新幹線は、3人掛けの座席の真ん中まで乗客で埋め尽くされ、いわゆる「満席」状態。

あらかじめ切符を購入できているときは窓側の席を取るけれど、あわてて駅に駆け付け切符を購入するときはもう席など選べない。

結果、3人掛けの真ん中で、両端の人に遠慮しながら車中を過ごす。

飛行機の座席に比べれば余裕があるとはいえ、両端がやたら体格のいい男性だったりすると、なんだかそれだけで気疲れしてしまう。

このあたりの心境、たぶん女性にはわかってもらえると思うけれど…。

それにしても東海道新幹線は「スーツ姿」の乗客が多い。

スーツを着ている=サラリーマンというわけでもないだろうけど、別名ビジネス列車というだけに、たぶん出張や仕事での利用者が一番多いだろう。かくいう私もそのひとりだし。

タイトなスーツを着て、せわしなく新幹線に乗り、西へ東へと移動。

バッグの中にはエア首枕にのど飴、マスク、耳栓、文庫本を常備して、「長時間の乗車スタンバイ」体勢。

それは確かに現実なのだけど、ときどき、あれっ? 私、なんでこんなに新幹線に乗ってるんだろう? と、自分の現実が信じられなくなることがある。

20年ほど前、私は郊外の新興住宅地でふたりの子どもの子育てに追われていた。

毎日、家と公園、スーパーの半径300メートルくらいが生活圏。

掃除や洗濯、買い物、子どもの習い事、近所のママ友とのおしゃべり、そんな狭い世界を生きていた。

幸せであることは間違いなかったけれど、一方でその狭さにたまらない息苦しさを覚えていた。

「〇〇ちゃんママ」と、子どもの名前の下に「ママ」をつけて呼ばれる日々に、個人としての自分を見失いそうでこわかった。

新幹線に乗りたいなぁ…、そう何度となく思った。ひとりで、颯爽と新幹線に乗って、どこか遠くの街に行ってみたい、そんなふうに憧れた。

そしてすぐに、その憧れを打ち消した。

ひとりで、颯爽と新幹線に…、乗れるわけないじゃん、と。

子どものいる女が、ましてや子育てに追われている女が、ひとりで新幹線に乗れる機会などまずない(少なくとも当時はそう思っていた)。

仮に将来、何かの仕事をはじめるとしても、子持ちの女が新幹線に乗るような仕事などできっこない、と思っていた。

あれから20年が過ぎて、今の私はあたりまえのように新幹線に乗っている。

その幸運に感謝は尽きないけれど、一方で新幹線はやっぱり「男社会」だ。

座席に身を沈めながら、この車中に「子持ちの女」は何人乗っているだろうか、とふと思う。

観光や所用ではなく、純粋に「仕事」で新幹線に乗れる女、地方出張や大切な会議を任せられる女は、いったいどれくらいいるのだろう、と思う。

女の世界は広がった、と言われる。

女子力、女子会、女子飲み、などと、女は自由で、元気で、どんどん活躍できている、と喧伝される。
ならば女たちが、もっと「仕事」で新幹線に乗っていていいはずだ。地方出張も、大事な会議も、女が任せられていいはずだ。

けれど、いまだ新幹線には女が少ない。

車中は、スーツ姿の、疲れた顔の男性たちが、缶ビールやスポーツ新聞、スマホを手に座席を占めている。

20年も経って、「新幹線に乗りたい」と思っていた頃の私と同じように、相変わらず子持ちの女は半径300メートルに押し込められているんだろうか。

女たちが、本当に自由で、元気で、どんどん活躍できる社会になったんだろうか。

車窓から見える初冬の富士山は美しい。

その同じ景色の中に、家々に干されている洗濯物が見える。

あの洗濯物を干しながら、走り抜ける新幹線を見つめ、ため息をつく子持ちの女が少なくないとしたら、男女雇用機会均等なんてつくづく嘘くさい。